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【字幕翻訳者たちとの思い出】第7回 林完治さん 〜マトリックスの世界を開いた男〜

この記事は、書籍『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』の著者:小川政弘氏にその外伝として執筆いただきました。

連載第7回は、林完治さんです。

林 完治さん
字幕翻訳を手がけた主な作品に、『狩人の夜』『マトリックス』『マトリックス リローデッド』『マトリックス レボリューションズ』『アイ・アム・レジェンド』『タイ・カップ』『沈黙の要塞』『スーパーマン リターンズ』『グリマーマン』『フェア・ゲーム』『相続人』『交渉人』『ロミオ・マスト・ダイ』『トレーニング デイ』『ソードフィッシュ』『2001年宇宙への旅』『完全犯罪クラブ』『ゴーストシップ』『テイキング・ライブス』『コンスタンティン』『300 〈スリーハンドレッド〉』(以上ワーナー・ブラザース作品)、 『L.A.コンフィデンシャル』『スター・ウォーズ』(シリーズ)、『オースティン・パワーズ』『ヴァン・ヘルシング』『アベンジャーズ/エンドゲーム』他多数。

林さんに初めてお仕事をお願いしたのは、1980年代後半だと思います。彼は現在、翻訳のかたわら、今も私と同じ字幕翻訳学校(映像テクノアカデミア)で教えていますが、もともと教えるのはプロで、本連載第3回でご紹介した菊地浩司さんが一時期運営していた学習塾の講師の一人が林さんでした。字幕翻訳の大御所高瀬鎮夫さんの跡を継ぐ、いいセンスを持った男性の字幕翻訳者がなかなかいなかった頃に、浩司さんから、「この青年を一度使ってみてくれませんか」と紹介されたのでした。彼を売り出すには、先輩の浩司さんの薫陶があったのは言うまでのないことで、何本か彼の作品を見せてもらって、「これなら」ということで、当時ワーナーはホームビデオ部門も始めていて、翻訳者の数が不足していたこともあって、一度ビデオ作品をお願いすることにしました。記録が残っていませんが、それが、ロバート・ミッチャムが殺人鬼を演じる『狩人の夜』だったと思います。

目次

のっけからキリスト教の世界で鍛えられる

この映画の中に、賛美歌が流れますので、その歌詞の訳について私が手を入れたエピソードは、拙著『字幕に愛を込めて』に書いてあります。またこの歌詞監修によって、私がクリスチャンで、キリスト教や聖書の関わる訳についてはとりわけうるさい(!)ことも、彼の知るところとなり、それから数年して、アメリカ野球の伝説の男にトミー・リー・ジョーンズが扮した『タイ・カップ』に、これもキリスト教界ではクラシックとなっている賛美歌が出てきた時は、彼のほうから「これは一つ小川さんが訳を」と私に花を持たせてくれた話も、同書に載っています。

マトリックスの世界が開かれる

そんな彼は、次第に他社の翻訳にも手を広げて着実に実力をつけていきましたが、何と言ってもワーナーでのハイライトは、「マトリックス」三部作に彼を抜擢したことでしょう。ストーリーは、一口に言えば、人間が作ったコンピューターが、人間に反乱を起こすお話で、現実の世界と、コンピューターが作り出した架空の世界(いわゆる仮想現実 ヴァーチャル・リアリティー)の間を、コンピューター人間と生の人間が、なんと電話回線を使って出たり入ったりしながら、最後の主導権を巡って壮絶な戦いを繰り広げるのです。この作品は、ジャンル分けすればSF作品と言えますが、カンフーの格闘技も繰り広げられます。またストーリーの各所に隠喩や暗示を置いたり、登場人物や乗り物などに聖書や神話の名前を多用したり、死者の復活にまで触れたりするなど、哲学や信仰というテーマも込められています。つまり一口では言い表せない深さも持っていて、いろいろな意味で、“ぶっ飛んだ”映画でした。

このような内容の映画の字幕を訳すのは、コンピューターにも詳しく、仮想現実の世界をよく理解できる人がいいだろうと考えた私は、日ごろ林さんからいろいろ“新しい”話題を聞かされていたこともあり、迷わず彼を翻訳者に指名しました。彼は、この映画を最初に見たあと、この映画のコンセプトを図解して実に分かりやすく説明してくれたので、私はもちろん、この映画をどのように売ろうかと頭を抱えていた宣伝部の皆さんからも、大いに感謝されました。そして、私や彼らの期待に応えて、よく話の筋が通る良い字幕翻訳をしてくれたのです。その実績が、ワーナーでは、シリーズ再開のSF大作『スーパーマン リターンズ』の翻訳、そして他社では、かつて岡枝慎二さんが訳された、ジョージ・ルーカスのライフワークである「スター・ウォーズ」新シリーズの字幕翻訳抜擢につながっていきます。

ハードボイルドの世界もお手の物に

彼の訳した作品群のもう一つの系列は、甘いラブロマンスには当然ながら(?)あまり縁がなく、ワーナーでは『交渉人』、他社では 『L.A.コンフィデンシャル』などに代表される、ハードボイルドな刑事ものでしたが、後者の 『L.A.コンフィデンシャル』はちょっとしたいわくつきでした。洋画配給会には、私のいたワーナーのようなアメリカに本社を置くメージャー系と、日本人が経営する独立系(インデペンデント、略称インディー)の二つがありましたので、作品によって、本来はメージャーの日本支社が配給すべきところを、インディーが買い付けて配給することもままありました。この「L.A.コンフィデンシャル」もそれで、林さんは、最初ワーナーが配給するつもりで翻訳を依頼されたのですが、事情でワーナーは配給を見合わせ、インディーの会社が配給したのです。複雑極まりないストーリーを理解してもらうため、彼と一緒に翻訳上でもいろいろ苦労したので、私としてはちょっと“損”をした気分になったものでした。

ハスキー犬と車のお話

最後に、翻訳を離れての思い出話を1つ2つして終わりましょうか。

仕事柄、翻訳者には“息抜きのための必需品”的ペットを飼っている人が多い話は連載第6回でしましたが、林さんは犬派です。私は会いそびれましたが、彼が飼っていたのは寒さにめっぽう強いハスキー犬でした。その分、暑さには極端に弱いそうで、1度気温が上がってもダウンしてしまうため、温度管理には細心の注意をして(当然夏は言うに及ばず、冬でもかなり低い一定温度以上には上げない!)、そのため、同居の人間(林さんと奥様のお二人)も寒さには抜群に強くなった…かどうかは聞きそびれましたが、電気代は結構食ったそうです。

もう1つは車の運転のこと。翻訳者の中にも車に乗る人は多いですが、戸田奈津子さん、菊地浩司さんは大の車好きで、外国に行っても、レンタカーでドライブする腕前でした。浩司さんは、いっとき、イタリア車のマセラッティに乗っていて、ドライブに乗せていただいたのですが、鎌倉の、外車には車幅すれすれの狭い路地を、減速するでもなく事もなげに走り抜けるのには舌を巻きました。一方、古田由紀子さんが遅まきながら免許を取って外車を買い、皆さんに腕前を披露しようと誘った時には、当面は誰も話に乗らなかったという逸話も流れました。私は1度だけ乗せてもらいましたが、皆さんの心配は杞憂だった…ということにしておきましょう。林さんの車にも1度だけ乗せてもらいました。もう一人の女性翻訳者と3人、夜のお食事をして話が弾み、遅くなったので、彼が自宅まで車で送ってくれることになりました。彼はアルコールが下戸で、当日もしらふだったので安全だったのですが、その運転がまた一流でした。高速道路も下の道も、まるで流れるようにすいすい危なげなく他車を追い抜き、私がいつもはタクシーで家までかかる時間の半分ぐらいの速さで着いたのには、ただただ恐れ入りました。

私がワーナーを退社してあっという間に13年。翻訳者の方々とも疎遠になりましたが、林さんとは、字幕学校で教えているので、その後も交流は続き、共通の教え子の結婚式に招待されて、一緒に出席したこともありました。今でも、少なくとも年に1度は会うチャンスがあります。時にはありがたくも、彼のほうが自分の授業が終わっても待っていて、声をかけてくれます。私が退社後、映画界の“古き良き時代”もめまぐるしく変わったようですが、私がその変わりぶりを知りうるニュースの仕入れ先は、今やほとんど彼だけで、いつも感謝しているところです。

【執筆者】
元ワーナー・ブラザース映画製作室長
小川 政弘(おがわ・まさひろ)
1961年〜2008年、ワーナー・ブラザース映画会社在職。製作総支配人、総務部長兼任を経て製作室長として定年退職。在職中、後半の31年にわたって2000本を超える字幕・吹替版製作に従事。『ハリー・ポッター』『マトリックス』『リーサル・ウェポン』シリーズ、『JFK』『ラスト・サムライ』『硫黄島からの手紙』二部作等を監修。自身も『偉大な生涯の物語』『ソロモンとシバの女王』『イングリッシュ・ペイシェント』『老人と海』などの作品を字幕翻訳。著書に『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』(イーグレープ)、『字幕翻訳虎の巻 聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』(いのちのことば社)などがある。

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