今回ご紹介する一冊は、清水俊二さん著『映画字幕は翻訳ではない』です。“字幕翻訳”を勉強されている方なら、少しドキっとするタイトルですよね。この言葉は清水さんの持論でもあります。
清水俊二さんは、『ライムライト』や『真昼の決闘』、『七年目の浮気』など、生涯で約2,000本以上の映画字幕を手がけられた翻訳者です。また、映画だけでなく小説の翻訳もされていました。レイモンド・チャンドラー作品の翻訳が多く、『長いお別れ』『さらば愛しき女よ』などが有名です。1988年に亡くなられました。
その清水さんが書かれた本書は、清水さんが翻訳の仕事するなかで感じたことを書いた約20本のコラムと、約70本の映画作品からセリフを抜粋した英会話レッスンで構成されています。
清水さんは字幕翻訳を行う上で必要な条件を、語学に加えて3つ挙げています。
- 映画を愛し、映画を理解する力を備えていること
- 日本語、特に話し言葉に熟達していること
- 百科事典的な雑知識に好奇心を持っていること
どれも言われてみると納得の条件ですが、3つ目の条件は意外と忘れがちではないでしょうか。コラムを読むと、清水さんは特に3つ目の力に長けていたことがよくわかります。例えば、ニューヨークの街の様子に始まり、野球用語、アメリカ政治家などについての知識を披露しています。さらに清水さんは「もちろん、知らないことは書物などで調べればよいのだが、知識がまったくないと、調べる手がかりがつかめない」ともおっしゃっています。
また、本書に編者として関わり、清水さんの弟子でもあった戸田奈津子さんは、清水さんについて次のように述べています。
私など足元にも及ばぬ博学知識、その上に飽くことのない好奇心。八十二歳で他界されるまで、知識を吸収することに貪欲であられた。
(※実際は享年81歳。ここでは原文通り引用しております)
常にあらゆることに好奇心を持っていたからこそ、清水さんは博学であり、翻訳者としての実力も認められていたのでしょう。
他にも、日本で最初に字幕がついた『モロッコ』の評判が良かったため日本に映像字幕が広まったという話や、当時流行したという『旅情』の名訳「スパゲティを出されたら スパゲティを食べなさい」の解説など、とても興味深い話が満載です。
「シネ英会話 Lesson」と題された英会話レッスンでは、『クレイマー、クレイマー』や『ヤング・ゼネレーション』、『タクシー・ドライバー』など多くの有名作品が取り上げられます。シネ“英会話”と言いつつ、英会話だけのレッスンでなく、映画に登場する文化なども教えてくれるのが、このレッスンの面白いところです。
セリフだけでなく邦題についての解説もあります。例えば、人気スパイシリーズ007の第12作『007/ユア・アイズ・オンリー』。その原題は”For Your Eyes Only”です。邦題は原題をそのままカタカナにしていますが、その意味をご存知でしょうか? For your eyes onlyを直訳すると、「あなたの目だけに」となりますね。そこから発展して、「極秘書類」「㊙文書」といった意味があり、ネイティブスピーカーがFor your eyes onlyと聞いて思い浮かべるのは、「極秘書類」なのです。そして、作中後半ではこのFor your eyes onlyの意味を知っているからこそ笑えるジョークが登場することを紹介しています。英語を言葉通りに捉えるだけではわからないことがある、ということを示す良い例ですね。
この他にも、”Will you ~?”と”Would you ~?”の違いといった文法的な話や、プロムや神、キリストといった英語圏の文化に触れた解説もあります。
本書は、1970~80年代に書かれたコラムが収録されており、当時の映画作品が紹介されています。そのため、現在の映像翻訳業界とは異なる点もあるでしょう。しかし映像翻訳の黎明期や、当時の業界を支えた清水さんの翻訳に対する姿勢を学ぶことは非常に重要ではないでしょうか。本書全体から、前述したような清水さんの好奇心や、清水さんが言葉の使い方に人一倍敏感だったことが伝わってきます。 そして本書を読むと、清水さんが「映画字幕は翻訳ではない」と考える理由が見えてきます。タイトルが気になった方は、その真意を知るためにもぜひ本書を読んで清水さんの考えに触れてみてはいかがでしょうか。
【執筆者】
安永 サヤ(やすなが・さや)
技術翻訳者(英語)兼、Webライター。映画鑑賞が趣味で、年に100本ほど鑑賞しています。翻訳者の目線から、字幕翻訳に役立つ本をご紹介していきます。