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【字幕翻訳者たちとの思い出】第16回 岸田恵子さん 〜東北新社翻訳室の“もう一つの顔”〜

この記事は、書籍『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』の著者:小川政弘氏にその外伝として執筆いただきました。

連載第16回は、岸田恵子さんです。

岸田恵子さんは、前回でご紹介した東北新社翻訳室の佐藤恵子さんと並ぶ、“もう一人の恵子さん”です。長らくフリーランス(個人)の翻訳者にお願いしてきた私が、東北新社翻訳室に仕事をお願いするようになったきっかけは、前回お話ししましたし、岸田恵子さんのことも、“予告編”としてご紹介しました。今回は“本編”としてのご登場です。

岸田恵子さん  『字幕に愛を込めて』記載
翻訳を手がけた主な作品に、ワーナー・ブラザースでは「ハリ・ポッター」シリーズ(字幕版:第5作〜第8作、吹替版:第1作〜第8作)、『マッチスティック・メン』(字幕版)、『スタンドアップ』(字幕版)、「ファンタスティック・ビースト」シリーズ(字幕版、吹替版)、『レディ・プレイヤー1』(字幕版、吹替版)、『マイ・インターン』(字幕版)など。他社作品では、『パディントン』(字幕版)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(字幕版)など他多数。

目次

「ハリー・ポッター」の吹替版翻訳はこの人でキマリ

“ワーナーと岸田恵子さん”と言えば、吹替版における“ワーナーと戸田奈津子さん”みたいなもので、2001年12月のクリスマスに満を持して公開した「ハリー・ポッター」第1作『賢者の石』の日本語版製作に当たって、字幕版はためらうことなく戸田奈津子さんにお願いしましたが、吹替版を東北新社で制作することになって、これがまた大変。字幕版と同じく吹替版台本は全てJ・K・ローリング原作の日本語版翻訳者である松岡佑子さんの監修を受けなければなりません。加えて出演者もかなりの端役に至るまでヴォイスサンプルをアメリカ本社に送って、オーディションを受け、合格しなければならないのです。これだけで何度もスタジオに足を運びました。

そしてこの映画の吹替版翻訳者ですが、翻訳室から推薦のあったのが岸田恵子さんでした。私はお名前しか知らなかったのですが、そのレジュメや他社の主要翻訳作品などを見て、「この人なら間違いないだろう」と納得してお願いしたのでした。この人選が間違いなかったことは、実際に吹替版の制作を開始してみて分かりました。

声優たちが数本のマイクを前に声の演技をするダビング室の前に、彼らを一堂に見回せる結構広い録音室があり、ディレクターやエディターが最新の録音機材を前に陣取ります。ディレクターはモニタースイッチを何度も押しながら演技のダメ出しをします。その後方には、やや傾斜のついた高いところに数席の椅子があって、そこにプロデューサーの私やワーナー製作部のスタッフ、翻訳者が座って注意深くモニターし、何か注文があればディレクターに依頼するのです。また逆に、時には声優さんやディレクターからも、セリフの変更などの要望が出ることもあります。この「ハリー」シリーズは、前述のように日本語のセリフにもかなり制約があったのですが、岸田さんは、それらの要望にも実に適切に応え、時には制約に抵触しないように折衷代案を出すなど、この作品を事前によく見て自分のものにしていることがよく分かりました。

3人の子役声優と岸田お姉さん

こうして、2001年から私が退社前に最後に担当した第5作、2007年の『不死鳥の騎士団』まで、私は岸田さんとまず「ハリー・ポッター」でお付き合いさせていただきました。彼女は、日本語のセンスはとても高いものを持っているだけでなく、お人柄もとてもいい方で、出しゃばらず、いつも笑顔を絶やさない人でした。内心、「この人、クリスチャンかな?」と思ったほどです。

吹替版制作のときは、このシリーズのような大作になると、普通作品ならせいぜい3日で済むところが、優に1週間から10日ぐらいかかることもあります。午前中からスタジオに入り、お昼になると、近くのレストランに入ります。ここでの食事を交えた会話も楽しいものでした。

映画「ハリー」シリーズの声優たちは主役の3人が、ご存じのように男子2人(ハリー役の小野賢章君とロン役の常盤祐貴君)、女子1人(ハーマイオニー役の須藤祐実さん)の子役で、第1作の時はまだ小学4年ぐらいでした。それを高校生になるまで付き合ったわけですから、映画の3人の成長と、その声優たち3人の成長を、スクリーンと吹替版制作現場で同時に見られるというめったにない体験をすることができました。

最初の数作の頃は、彼らはまだ子供です。休憩の時は小野君と常盤君は互いにゲームなどで遊び、須藤さんには岸田さんがよく声をかけてあげていました。男子2人には、私も時々声をかけましたが、彼らには私はさしずめお父さん、シリーズ最後の頃はヘタをするとおじいちゃん、でも須藤さんには、岸田さんは変わらぬお姉さんだったろうと思います。

とうとう「ハリー」の映像翻訳は彼女が一手に引き受けた! 

こうして、「ハリー」シリーズは、2008年の私の退社後も続き、2011年の最後の第8作『死の秘宝 PART2』で完結するのですが、その間に、この映画の翻訳者にも、舞台裏の“異変”が起こっていました。映画の翻訳には字幕版と吹替版でそれぞれ別の翻訳者にお願いするのが普通です。

私がワーナーに入社した1961年の前後に活躍した古い翻訳者は、主として劇場用映画の翻訳をする字幕翻訳者と、テレビ用映画の翻訳をする吹替版翻訳者の棲み分けがはっきりしていて、ワーナーのようなメジャー会社は、字幕版はもっぱら字幕翻訳しかなさらない方にお願いし、たまに大作の吹替版を作るときは、吹替版もできる方にお願いしていたという事情もありますが(吹替版しかできない方はまずありません)、現実的な理由は、同じ人が同時にどちらも翻訳することは、公開までのスケジュール面でまず無理だったからです。

ところが、その条件さえクリアできれば、同じ人がやった方がいいメリットも当然あります。それは何と言っても、その作品を担当する翻訳者は映画の内容に熟知しますから、コンセプトも、言葉遣いも、統一性の取れた翻訳ができるということです。そして決め手は、日本語のセンスが極めて優れていることです。

私は岸田さんの言葉のセンスは前述のように十分に認めていましたが、私以上にそれを買っていたのは、製作部の私の後任者たちでした。劇場版は私が関わった第5作まで、字幕版戸田奈津子さん、吹替版岸田恵子さんでやり、それを他の作品同様ホームビデオでも使用していたのですが、彼らはなんと、スケジュールの面でもやりくりをして、第5作のブルーレイ・DVDのホームビデオ版の字幕翻訳を岸田さんで再訳させ、以降最終第8作まで、「ハリー」の翻訳は字幕・吹替両方を彼女がやることになりました。私は後日それを知ったのですが、反対するどころか、「彼女なら大丈夫」とむしろ彼女のこれからのために心から喜んだのは言うまでもありません。

『スタンドアップ』で字幕翻訳の実力も発揮

こうして、私と岸田さんのお付き合いは、もっぱら「ハリー」シリーズの吹替版翻訳を通してでしたが、彼女の翻訳・日本語表現の実力を知ればこそ、なんとかそれ以外にもチャンスをあげたいと心がけていました。そして私の在任中に、そのチャンスは2度ほど訪れました。

最初は2003年10月劇場公開の『マッチスティック・メン』で、ロバート・ゼメキスが製作総指揮、『エイリアン』『グラディエーター』などの名匠リドリー・スコットの監督作品です。ニコラス・ケイジ扮する主人公、詐欺師のロイが、極度の潔癖性のうえ、対人恐怖症のもあり精神科にも通っている男で、およそ詐欺師の柄ではないのに、大まじめに仕事に精進するところから来るユーモラスなストーリーを、彼女はワーナーの「ハリー」以外の初仕事ながら、楽しんで字幕にしてくれました。

もう1本、もう何度かお話ししたように、私の定年退社までの最後の3年の間に、代表作と言える作品をお願いするというポリシーに立って彼女にお願いしたのが、2006年公開の『スタンドアップ』でした。『モンスター』のオスカー女優シャーリーズ・セロン主演で、1988年に行われた世界初のセクシャル・ハラスメント訴訟で勝訴した実話を映画化したこの作品は、夫と別れ、女手一つで2人の子どもを育てるために、炭鉱という重労働の世界に飛び込んだ女性が、酒と女で余暇を楽しむだけの荒くれ男たちの偏見と性暴力に敢然と立ち向かい、厳しい裁判を経て最後に勝利するという、シリアスな中にも感動を呼ばずにおきませんでした。果たしてこの作品は、第78回アカデミー賞と第63回ゴールデングローブ賞で、主演女優賞にシャーリーズ・セロン、助演女優賞にフランシス・マクドーマンドがノミネートされましたが、岸田さんはすばらしい字幕翻訳で私の期待に応えてくれました。

私の「聖書の世界」授業で特別受講生に

最後に彼女にまつわるエピソードでこの回を閉じましょう。

私は、東北新社が母体の映像翻訳者養成学校「映像テクノアカデミア」で、クリスチャンの端くれとして、長年特別講座「聖書の世界」を担当しています。外国映画の映像翻訳は、どんな内容の作品にもその根底に流れているキリスト教・聖書の正しい知識なしにはできないからです。

もう10年近く前でしょうか、ある年の2時間の講座が終わったあと、教室の最後尾から、数人の女性受講生が講壇に駆け寄ってきました。その一人が、「小川先生、授業良かったです! 前から受けたかったのですが、なかなかチャンスがなくて、今日は事務局に頼んで、やっと受講できました」とニコニコしながら言ったのですが、その人がなんと岸田恵子さんで、他の数人も翻訳室の新人翻訳者さんたちでした。思いがけない彼女との再会を喜ぶと共に、プロの翻訳者としてそれなりの聖書知識は当然お持ちなのに、こうして真摯に学ぼうとする彼女の姿勢に感動したことを、今も懐かしく思い出します。

【執筆者】
元ワーナー・ブラザース映画製作室長
小川 政弘(おがわ・まさひろ)
1961年〜2008年、ワーナー・ブラザース映画会社在職。製作総支配人、総務部長兼任を経て製作室長として定年退職。在職中、後半の31年にわたって2000本を超える字幕・吹替版製作に従事。『ハリー・ポッター』『マトリックス』『リーサル・ウェポン』シリーズ、『JFK』『ラスト・サムライ』『硫黄島からの手紙』二部作等を監修。自身も『偉大な生涯の物語』『ソロモンとシバの女王』『イングリッシュ・ペイシェント』『老人と海』などの作品を字幕翻訳。著書に『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』(イーグレープ)、『字幕翻訳虎の巻 聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』(いのちのことば社)などがある。

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