『英国王のスピーチ』(2010年)
幼い頃から吃音症に悩まされていたイギリス王のアルバート(ジョージ6世)は、非常に内気な性格。父のジョージ5世から人前でのスピーチの機会を与えられるが、やはりどもってしまってうまくいかない。そんな彼を心配した妻のエリザベス(現エリザベス女王の母)は、言語療法士ライオネルの元に連れていく。アルバートはライオネルと共に訓練を重ね吃音症を克服し、同時に真の国王ジョージ6世になっていく。
ジョージ6世の苦悩
御年94歳の今も現役の国王として公務をこなし続ける、イギリスのエリザベス女王。英国のシンボルともいえる存在ですが、『英国王のスピーチ』はそのエリザベス女王の父、ジョージ6世が主人公の実話に基づいた映画です。
このジョージ6世は日本ではそこまで知られていない人物ですが、なかなか苦労の多い王だったことが窺えます。元々ジョージ6世は次男で、兄のエドワード8世が第一王位継承者だったため、後継者としての教育はそこまで受けていなかったようです。ですがエドワード8世がシンプソン夫人というアメリカ人の既婚女性と恋に落ち、ついには王位を捨てて彼女との結婚を選んだため弟のジョージ6世が即位することになりました。幼い頃から厳しい父と奔放な兄の間で苦労し、吃音症を抱えて内気だった彼が急に王位に就くことになる苦悩とストレスは相当なものだったでしょう。
監督は『レ・ミゼラブル』のトム・フーパーで、本作は2011年の第83回アカデミー賞において作品賞、監督賞、主演のコリン・ファースが主演男優賞、さらに脚本賞(脚本はデヴィッド・サイドラー)の4部門で受賞しています。
本作の字幕翻訳は松浦美奈さんですが、英語独特の言い回しも多く言葉のチョイスも難しそうなこの作品を、うまく意訳を使い、かつ原音と合わせて見ても違和感のない素晴らしい字幕になっています。ストーリーだけでなく様々な観点から楽しんで見て頂きたい作品です。
知っておきたい“翻訳時に注意すべき用語”
王座に就くことになったジョージ6世が「人前でうまく言葉を発せない自分が、まともな王になれるわけがない」と弱音を吐くシーンで、こんなセリフがあります。
It will be like mad… | 狂気の王になる |
King Geroge the third. | ジョージ3世のように… |
A mad King. | 狂った王 |
「狂気」「気が狂う」という表現は放送上、なるべく避けるべき単語とされています。元々は「気違い」という単語が精神疾患を持つ人々を侮蔑する言葉として禁止されるようになり、そこから派生して「狂人」「狂気」「気が狂う」なども「なるべく使わない単語」として認識されるようになりました。
この放送禁止用語というものは法的に明確な基準はありませんが、考え方としては「どういう使われ方をしているか」が重要になります。特定の人種や職業の人に対して侮蔑的に使われているか、その表現で不快に思う可能性のある視聴者がいるか、といった点です。このシーンの「狂気の王」というのは、実在したジョージ3世が歴史上「Mad King(狂気の王)」と呼ばれていたこと、文脈的に他人のことではなく自分自身のことを「狂った王になってしまう」と言っている流れを考えても特に問題ない使われ方だと思います。
ただ不特定多数の視聴者がいるTV放送、特に地上波の放送では、場合によってはこういった表現を変更するよう指示が出る可能性もあるため、どんな言葉が注意すべき用語に当たるのかを知っておくことは必要です。そして使用する場合はなぜその言葉を使う必要があるかを説明でき、変更指示が出た場合も対応できるようにしておく、といったことも翻訳者としては重要なスキルです。
こちらの記事にある用字用語集の中の『記者ハンドブック』には「差別語、不快用語」という項目があり、どういった基準で判断すべきかの例が載っていますので、一度目を通しておくと概要が理解できるかもしれません。
英語と日本語の語順
物語のクライマックスはやはり終盤のジョージ6世のスピーチですが、スピーチの字幕翻訳はなかなか難しいものです。英語と日本語はとにかく語順が逆です。英語では動詞を先に言って後から修飾する表現が来ますが、日本語では最後に動詞が来ます。長い文章であれば文章丸ごと順番を変えてしまえばその差はあまり気になりませんが、字幕は文章を区切る必要があるので、日本語の語順にするとどうしても原文とは乖離する字幕が出てきます。多少は問題ありませんが、原文とまったく一致しない字幕が続くと、あまり英語が得意でない人でもなんとなく違和感を覚えるものです。
スピーチというのは人々に聞かせるため一言一言ゆっくり話す上、このジョージ6世のスピーチでは、どもらないように序盤は特にゆっくり喋るので、字幕もとても細かく区切られています。ですがこのスピーチの字幕では、ポイントとなる字幕は原文と一致させ、かつ日本語としてもしっかり意味が分かる文章になっているので、日本語だけ読んでも英語を意識しながら読んでも違和感がありません。
In this grave | この重大な── |
hour, | 時… |
perhaps the most fateful | おそらく史上最も── |
in our history, | 宿命的な時… |
I send | 私の言葉を |
to every household of my | すべての国民に── |
peoples, | 送る |
both at home | 国内と── |
and overseas, | 海外にいる者たちに |
this message, | このメッセージを… |
spoken with the same depth of feeling | 心からの 深い思いを込めて── |
for each one of you | それぞれの家の── |
as if I were able to cross | 戸口を開けて── |
your threshold and speak to you | 直接 話しかけるがごとく── |
myself. | 伝えたい |
翻訳をするようになると英語と日本語は言語的にこんなにも違うんだな、と思わされる機会も増えると思いますが、映画が伝えるメッセージはどの言語で見ても同じはずです。それを自分の言語でどう表現しよう?と楽しんで作業できたらいいですね。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。