連載第5回は、岡枝慎二さんです。
岡枝慎二さん
字幕翻訳を担当したワーナー・ブラザース作品に『ブレードランナー』『ベン・ハー』『ダーティハリー』『マッドマックス』『ターミネーター』『キリング・フィールド』『リーサル・ウェポン』、『カサブランカ』(ビデオ)、『サルバドル/遥かなる日々』(監修)など。その他、『エイリアン』『スター・ウォーズ』『ダイ・ハード』、『アギーレ・神の怒り』(ドイツ語)、『揺れる大地』(イタリア語)、『エル・ドラド』(スペイン語)、『惑星ソラリス』(ロシア語)、『愛の風景』(スウェーデン語)、『ニキータ』『愛人/ラマン』『エマニエル夫人』(以上、フランス語)など、2,000本以上の映画の字幕翻訳を手がけた。
岡枝さんとワーナーとの本格的なお付き合いは、1982年公開の『ブレードランナー』からで、1995年の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』まで13年ほど続きました。その後も各社で活躍され、2005年、私がワーナーを退社する3年前に76歳で亡くなられました。若い頃結核を患われ、確か片肺がほとんどない中で、超多忙な翻訳生活を送られたので、ご自分でも長生きはムリだろうとおっしゃっていたことを考えると、悔いのない人生だったのではと思います。
大学教授並みの語学の達人
なんと言っても彼のすごいのは、語学の達人だったということ。私は英語だけで精一杯、並み居る翻訳者の中でも、英語のほかに他言語が分かる人と言えば、せいぜいフランス語という人が数人いるくらい。それを彼はなんと、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、スウェーデン語の7か国語をものにされ、しかもそのほとんどは独学というのですから、「恐れ入りました」の一語です。
私も彼から、「小川さんもぜひこの本で」と「フランス語」「朝鮮語(このテキストはそういう呼び方でした)」の2冊を贈呈していただきましたが…1週間であえなく挫折しました!
彼はその抜群の語学力で、まずはヨーロッパ言語の映画から字幕翻訳の世界に入り、しっかりした字幕理論と、 平易な、しかも深みと味わいのある日本語で、次第にワーナーや他のアメリカ・メージャー映画会社の大作シリーズを手掛けるようになり、一時期、「高瀬鎮夫、清水俊二のあとに岡枝慎二あり」と言われるほどの(言ったのは私ですが)大活躍をされました。
岡枝字幕理論
① アウト(不要なセリフの訳を省略すること)の効用
これを端的に表した岡枝語録は、「字幕翻訳の極意はアウトにあり」「アウトこそ最高の訳」です。これを証明したエピソードが『サルバドル/遥かなる日々』(1987)で、ある新人の翻訳者が訳した総セリフ数800以上の字幕を彼が監修し、一つ一つセリフを短くしたのはもちろん、惜しげもなくアウトにして、7割弱の500少々にし、すっきりと読みやすいものにしたのでした。
② 字幕は“水”のように透明な字幕がいい
何やら“お酒はぬるめの燗がいい”みたいですが、字幕はあくまで映像の“付加物”。分をわきまえ、字幕が映像を超えて独特のカラーを持つのではなく、あくまで無色透明、字幕を通して登場人物が透けて見えるのが最上だと、常々言っていました。
③「を」止めは“欠陥訳”
「を止め」とは「体言止め」とも言い、SVO(主語・述語・目的語)の文章構成の中で、肝心のV述語部分を、字数制限のために省略する字幕翻訳技法です。例えば、「彼の名を知ってる?」を「彼の名を?」とすることです。これは、何を言いたいのかの推測を、字幕が消えるまでの一瞬の間に観客に強いる不親切な訳で、しばしば誤解・難解のもとになります。翻訳者にすれば、字数の凝縮に頭を使わなくて済むはなはだ便利なやり方なので、一時期大ベテランまで多用し始めたのですが、彼はこれを“欠陥訳”として、キビしく警鐘を鳴らしました。
④ 字幕翻訳は翻訳です
こちらは何やら当たり前すぎる物いいですが、実はこの世界では、「字幕も翻訳だ」「いや、字幕は翻訳とは違う、特殊な言語表現分野だ」という両派に別れて、議論が戦わされてきたのです。後者の人が主流で、映画の最後に現れる翻訳者名も、「日本版字幕 〇〇」と出るのですが、岡枝さんは前者の立場を崩さず、最後まで「翻訳 岡枝慎二」「岡枝慎二 訳」で通しました。これも立派な一家言です。ちなみに「あなたはどうなのよ?」と聞かれたら、私はこう答えます。「字幕は翻訳であって、翻訳ではないのです」(!)
⑤ 著書
これらの理論の集大成として、彼は4冊の本を出版しました。『スーパー字幕入門 映画翻訳の技術と知識』『スーパー字幕翻訳講義の実況中継』『映画スラング表現辞典』『雑学1,000問講座 翻訳家をめざすなら80点!』。私も出版の都度、お贈りいただき、後日、私自身も字幕翻訳者養成学校で教えるようになりましたので、大いに参考にさせていただきました。翻訳者が本を出すには、当然ながら、その人なりの翻訳理論を確立していなければならないわけで、私の知る限り、その土台に立ってこのように複数の本を出されたのは、清水俊二さんと岡枝さんぐらいではないかと思います。
ちなみに彼は、この理論と自著のテキストを用いて、長年翻訳学校バベルで教鞭を取られました。教え子の中には、ワーナーでも仕事をお願いした杉山緑さん、映画雑誌の依頼でワーナーの試写室で私がインタビューを受けた桜井文さん、岡枝さんのあとを受けて教壇に立たれた田中武人さんなどがいます。
岡枝さん名訳
①「撃たせてくれ」
ワーナー映画、『ダーティハリー4』のセリフです。これは拙著『字幕に愛を込めて』から引用しましょう。
悪者を店の中に追い詰めたハリーに、敵が最後の反撃を加えようと銃を突きつけると、彼はこう言います。Go ahead. Make my day. 直訳すれば、「やれよ。俺をいい気分で最高の一日にして、楽しませてくれ」という意味ですが、岡枝氏はこれを「撃たせてくれ」と訳しました。元の英語と共に、公開当時、ちょっとした流行語になったものです。でもこの訳は、かなりの意訳で、少々解説が要ります。ハリーの口から講釈してもらうなら、「俺を楽しませてくれよ。そのためには俺じゃなく、お前に死んでもらわなきゃならないんだ。だから、撃たせてくれ」というところでしょう。今、私が訳すなら、さしずめこうですね。「やれよ 笑うのは俺だ」。
②「理力」
これは、『スター・ウォーズ』に登場する重要な概念である「force/フォース」の訳語で、岡枝さんがこの映画と共に世に紹介した“新語”です。これも映画の爆発的ヒットと共に、ファンの話題に上りました。賛否両論がありましたが、これを読んでいるあなたはどうでしょうか? 翻訳者は、時としてその言葉の持つ真の意味を最大限に引き出すため、あえて”新語”を作る度胸が要ることの見本のような言葉でした。この映画のシリーズも、岡枝さん亡きあと、字幕翻訳は林完治さんに代わったようですが、彼はどう訳したでしょうか。片仮名で「フォース」でしょうか? それはそれでいいですね。字幕翻訳は、ある語をいい日本語に訳そうと、さんざん頭を悩ましたあとで、結局直訳に近い日本語が一番よかったということがままありますし、今どきの若者の言語感覚では、日本語訳ではなく、あえて原語のカタカナ表記で字幕にするほうが、すんなり受け入れられるということもありますので。
③「君の瞳に乾杯」
これはワーナー映画ビデオ版の『カサブランカ』を彼が訳したときのお話で、彼が名訳を残せなかったエピソードです。これも「字幕に愛を込めて」から再録しましょう。
岡枝さんも、当然ながら、全編を“岡枝慎二訳”として完成させましたが、どうしても訳せなかったのが、このHere’s looking at you, kidでした。訳す力がないというのではなく、ヘタにあの名訳と違った訳をして、ビデオ購入者から山のような文句が来るのがコワかったのだそうです。で、あそこだけは、「君の瞳に乾杯」が残ることになりました。
岡枝さんとの思い出
① 海外に一度も出なかった外国通
これは今思い出してもおかしい(面白い)映画界の七不思議でした。マスターされた7か国語を武器に、世界を股にかけても何の不自由もなかったでしょうに、本人は“インドア派”を自称して(半分は悔し紛れか、はたまた飛行機の高所恐怖症だったかは聞きそびれました)、一度も海外に行ったことがありませんでした。けれども、海外事情にはハンパでなく詳しくて、映画のシーンを見て、「ここは〇〇という通りで、この先に港があって…」と、見てきたような講釈を聞かされたものでした!
② 博学
博学と言えば、当然私の信じているキリスト教世界にも造詣が深く、モーセの出エジプトの新学説による新しいルートについても、その本を贈呈してくださって、ひとくさり説明してくれました。学のある分、オーソドックスな定説には“ひと言モノ申す”の気概がおありだったようです。
③ 人の喜ぶことへの気遣い名人
一見、大学教授風、気位の高い紳士風でしたが、若い頃病気と闘いながら苦労された分、人への気遣いはとてもなさる方でした。私が東北の出身で、お漬け物が無類の好物と知ると、ある時、奥様のご出身である山形から、それはおいしいお漬け物セットを送っていただきました。また彼は私と同じく猫好きで、翻訳の合間の一休みに、猫と戯れるのを楽しみにしていましたが、私の猫好きを知ると、これもある時、それはかわいい猫の肢体を4枚の絵に描いた、縦1メートルはあるガラス入り額をお送りくださって、我が家のリビングを飾ってくれました。
④ 岡枝流1日で2日分働く法
片肺の身を抱えながら超多忙だった彼は、普通の人のように、不眠不休スタイルではとても体がもたなかったのでしょう、彼に合った方法を考え出しました。それは、日中の仕事を終えて夕食をとったら、20時過ぎにはまず早々と床に就きます。そして一眠りして夜中の3時に起き出し、それで翌朝11時ごろまで仕事をし、昼食のあと軽く昼寝をしてまた夕食までひと仕事するというものでした(私の記憶に間違いなければですが)。このスタイルで、2,000本の字幕を生み出したわけです。
⑤ お嬢さんの結婚式
一粒種のお嬢様が結婚されるときは、お呼びいただいて、ひと言祝辞まで述べさせていただく栄にあずかりました。お嬢様からは、その縁を忘れず、岡枝さんが亡くなられて16年もたつ今も、毎年年賀状が送られてきます。優しい、親譲りの気遣いのできるお嬢様を、本人も満足げに眺めていることと思います。
【執筆者】
元ワーナー・ブラザース映画製作室長
小川 政弘(おがわ・まさひろ)
1961年〜2008年、ワーナー・ブラザース映画会社在職。製作総支配人、総務部長兼任を経て製作室長として定年退職。在職中、後半の31年にわたって2000本を超える字幕・吹替版製作に従事。『ハリー・ポッター』『マトリックス』『リーサル・ウェポン』シリーズ、『JFK』『ラスト・サムライ』『硫黄島からの手紙』二部作等を監修。自身も『偉大な生涯の物語』『ソロモンとシバの女王』『イングリッシュ・ペイシェント』『老人と海』などの作品を字幕翻訳。著書に『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』(イーグレープ)、『字幕翻訳虎の巻 聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』(いのちのことば社)などがある。