『コーダ あいのうた』(2021年)
豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聞こえる。陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から、“通訳”となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、合唱クラブを選択するルビー。すると、顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき、都会の名門バークリー音楽大学の受験を強く勧める。だが、ルビーの歌声が聞こえない両親は娘の才能を信じられず大反対。ところが、思いがけない方法で娘の才能に気づいた父は、意外な決意をし・・・。(公式Blu-rayより)
“日本語字幕にはルールが多い”というのは字幕を勉強したことがある人なら誰もが知っていることでしょう。常用漢字を意識しながらひらがな・カタカナ・漢字の3種類の表記を使い分ける必要があるうえ、文字数制限、ルビや三点リーダーの使い方、またイタリックやコーテーションにも気を使います。さらに縦字幕があるのも日本語ならではです。
英語やフランス語など他国の字幕もある程度統一されたルールはあるようですが、日本語字幕は断トツでややこしいので、最初は覚えるのが大変です。
ですがそれらのルールがとてもうまく機能を果たしてるなと感じたのがこの『コーダ あいのうた』で、ろう者の家族の中で1人だけ聴者として生まれた少女と家族の物語です。2021年に制作され、第94回アカデミー賞で作品賞・脚色賞・助演男優賞の3部門を受賞しました。字幕翻訳は古田由紀子さんです。
今回は翻訳そのものからは少しズレますが、本作の中で字幕ルールが、どのように機能して視聴者に効率的に情報を伝えているのかを見ていきたいと思います。
手話のセリフの話者が分かりやすい
字幕の字体は基本的には正体とされ、登場人物が映像に映っていない状態で話してるセリフを斜体(イタリック)にします。ただ本作の場合、通常の音声のセリフ字幕と手話のセリフ字幕が半々くらいで、さらに歌の歌詞字幕も多くあります。それぞれ一般的な字幕ルールどおり、下記のように使い分けられていました。
- 音声のセリフへの字幕:通常の正体
- 手話のセリフへの字幕:〈正体+くの字カッコつき〉
- 歌の歌詞字幕:イタリック
手話のセリフは音声がないので、音から話者を判断できません。もちろんその場で手話をしている人が話者ではあるのですが、音声のセリフと違って耳から反射的には分からないので、場合によっては誰のセリフかわかりづらくなる可能性があります。なので特に家族4人で激しく会話するシーンなどは、ルビー以外のセリフに〈 〉がついてるだけでも話者がちょっとだけ分かりやすくなるなと思いました。
さらにこれは字幕ルールというより日本語の特性ですが、「俺」「私」などの一人称も、話者を特定する助けになります。音声のセリフであれば少なくとも男女どちらのセリフかは声質から判断できますが、手話のセリフは違うので、一人称も重要な情報源になります。
また「~よね」「~だわ」など、女言葉を代表する役割語も同じです。役割語は最近よく話題になりますが、特にこういう作品ではとてもいい働きをしてくれるな、と感じました。
もちろん実際に映画を見るときはここまで意識していないと思いますが、無意識にそういう細かい情報を手掛かりに字幕を見ているので、話者に迷わず見られるのだと思います。
ルビは日本語字幕だけに許された技
字幕の仕事をしていると、吹替の仕事をしてる人から「字幕はルビが使えて羨ましい」と言われることがあります。本来は漢字の読み方をカナで表すものですが、字幕の世界では2つの意味を同時に示せるとても便利な手法です。本作では作品の冒頭でこのような使い方がされていました。
高校で合唱のクラスを選択したものの、人前で声を出すのがからかわれそうで心配、と話すルビーに、顧問のV先生がこう聞きます。
You’re the girl with the deaf family? | “ろうの家族の子”かね? |
タイトルのCODAはChildren of deaf adultsの略で“聞こえない両親を持つ聴者の子供”のことですが、近くに聴覚障害をもつ人々がいなければ知らない人も多いかと思います。ただこの単語はタイトルにもなっているキーワードですし、何度も出てくる単語なのでどこかで説明したいところ。なのでthe deaf familyと言ってる個所をうまく使い、一目で「コーダ」の意味を説明できるあたりが、ルビって便利だなとつくづく思います。
縦字幕があるから表現できる臨場感
通常、字幕は複数の人間が同時にしゃべっていても、出せる字幕は1枚なので1人のセリフ以外はアウト(字幕を訳出しないこと)とします。字幕を2枚同時に出すのはセリフの字幕と見せ字幕(看板やメールの文字などの文字情報への字幕)が重なった時だけです。ですがこの作品では手話のセリフならではの“同時出し”がありました。
終盤、学校の発表会のステージで見事歌ったルビー。家族をV先生に紹介すると、先生はルビーの父フランクに「音楽大学に進学させてほうがいい」と言いますが、自分が進学すると家族に迷惑がかかると分かっているルビーは、その部分はあえて父に通訳しません。その際のやり取りです。
① 先生: And they’re making a terrible mistake not sending her off to school. | 大学に行かせないのは大きな過ちだ |
② ルビー: I’ll just do the first part. | 前半だけ伝えるわ |
③ 先生: I’m meeting Miles at his audition tomorrow. You still have your slot, if you change your mind. | 明日はマイルズの受験だ 君の枠もある ※ 「君」はルビーのこと |
④ フランク: | 〈なんだって?〉 ※ 縦字幕 |
⑤ ルビー: You have to stop. | もうやめて |
文章からイメージするのは少々難しいとは思いますが、③と⑤でルビーと先生が受験について真剣に話す横で、何を話してるんだ?と疑問に思ったフランクが手話でルビーに聞いてるのが④です。つまり音声のセリフを横字幕で出しつつ、ルビーに話しかけるフランクの手話のセリフも同時に縦字幕で出しているのです。
2つのセリフ字幕が同時に出てるというのは普段の字幕ではあまり見かけないので新鮮でしたが、3人のやり取りのテンポが無理なく伝わって、とても分かりやすいなと思いました。
ルールは何のためにあるのか
最初に字幕ルールを勉強した時は「なんのためにそのルールがあるのか」ということはあまり深く考えないと思います。そもそも大多数の視聴者は、字幕にルールがあることすら気づかず見ているでしょう。
この作品では字幕の記号やルールをうまく使うことで、無意識レベルで映画を理解する手助けしてくれていることが実感できました。細かく決められた字幕ルールは、字幕を少しでも分かりやすくとこれまで積み重ねられてきた工夫の結果であり、日本語字幕って本当によくできてるなと改めて思いました。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。
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