『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)
ハリウッドの脚本家ギルは、婚約者とその両親と共に憧れのパリに滞在中。そんな彼がある夜、0時を告げる鐘の音に導かれて迷い込んだ先は、芸術花開く1920年代だった! これは夢か幻かと驚くギルの前に、次から次へと偉人を名乗る面々と、妖艶な美女アドリアナが現れて…。(公式Blu-rayより)
先日、今年度のアカデミー賞が発表されましたね。これまでアカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされた監督といえばウディ・アレンですが、今回は彼の作品から、2012年のアカデミー脚本賞を受賞した『ミッドナイト・イン・パリ』を取り上げたいと思います。真夜中のパリを舞台に繰り広げられる大人のファンタジーで、映像も音楽も会話も最高に魅力的な1本です。字幕翻訳は石田泰子さんが担当されました。
ウディ・アレンの映画は早口でまくしたてるようなセリフが多く、ただでさえ翻訳者にとってはなかなか手ごわい作品なのですが、本作ではそれ以外にも大変そうなポイントがあるのでそのあたりを見ていきたいと思います。
欧米の人物名はとても長い
洋画の字幕翻訳において、欧米の人物名表記は文字数を食うので悩ましいポイントのひとつです。主人公のギルは真夜中のパリを散歩中に1920年代にタイムスリップするのですが、そこで出会うのは当時パリで活躍していた憧れの作家やアーティストたち。作曲家のコール・ポーターに始まりアーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタインから映画監督のルイス・ブニュエルまで、長い名前の人物が次々に登場します。
単に歴史上の人物として一度出てくるだけであれば無理に名前を出さずに「作家」などに言い換えたりもできますが、本作では彼らの名前を羅列することに意味がある場合も多いので、シーンによっては出さないわけにはいきません。
例えばこちらのシーン。終盤でギルは婚約者のイネズの浮気を指摘して口論になりますが、浮気に最初に気づいたのはヘミングウェイだと主張します。
ギル: There’s nothing crazy about Hemingway or Fitzgerald or Gertrude Stein or Salvador Dalí. | ヘミングウェイは正気だ フィッツジェラルドもダリも! |
イネズ: Nothing except they’ve all been dead for years. | 大昔に死んだ人たちよ |
ギル: No no, the past is not dead. Actually, it’s not even past. | “過去は死なない 過去ですらない” |
You know who said that? | 誰の言葉と? |
Faulkner. And he was right. And I ran into him at a dinner party. | フォークナーだ 僕はパーティーで会った |
(中略) | |
No, I’m too trusting. I’m jealous and I’m trusting. | 僕は嫉妬深いのに 信じやすい |
It’s cognitive dissonance, Scott Fitzgerald talked about it. | スコットが”認知的不協和”と |
I know you can fool me but you cannot fool Hemingway. | ヘミングウェイはだませない |
大昔に死んだ人物たちの名前を次々に挙げるギルに、イネズは彼の頭がおかしくなったのかと思い、結局ふたりは破局します。
1行に入れられる文字は13~14文字なので、長い名前が入ると文章の改行位置など考えても作れる文章に限りが出てきます。ハコを短く切ったり語尾を省略したりして調整しつつ、意味が通る文章にするというのは至難の業です。
しかもフォークナーの言葉の引用まで織り交ぜるあたり、セリフとしては秀逸ですが、翻訳するほうは大変ですね。
1920年代の偉人たちの小ネタが満載
前述のとおり、物語にはレジェンド的な文豪やアーティストが大勢登場します。同時に先程挙げたフォークナーの引用のように、彼らの背景や作品に関するセリフも多数出てきます。
例えば冒頭、ギルはパリの街を絶賛する意味でこう言います。
What did Hemingway say? He called it a moveable feast. | ヘミングウェイは “移動祝祭日”と |
He called itのitはパリを指していて、つまり「ヘミングウェイはパリを“移動祝祭日”と呼んでた」という意味です。ここだけ見ると何も知らなければイマイチ意味が分かりませんが、「移動祝祭日」はヘミングウェイの著書のタイトルで、その中にこんなくだりがあるそうです。
If you are lucky enough to have lived in Paris as a young man, then wherever you go for the rest of your life it stays with you, for Paris is a moveable feast.
もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
この“移動祝祭日”というワードは後半、ヘミングウェイ自身のセリフとしても出てくるのですが、このような小ネタが物語のいたるところに散りばめられています。こういったセリフはその背景を調べて理解していないと訳せないので、膨大な調べものが必要だったことがうかがえます。
翻訳するのは大変だけど、見るのは最高に面白い!
至る所に翻訳の苦労が垣間見える本作ですが、ウディ・アレン独特のシニカルな会話やメッセージ性は健在です。最後にひとつ、個人的にすごく好きなセリフを紹介します。
物語の終盤でギルは、過去を黄金時代と感じるのは、それがすでに過ぎ去ったものだからだ、ということに気づきます。そして同時にこの憧れていた1920年代に漠然と不安を抱いた、ある夢のことを思い出します。
I had a dream the other night, where it was like a nightmare, where I ran out of Zithromax. | 怖い夢だった 家に抗菌剤を切らして── |
And then I went to the dentist, and he didn’t have any Novocaine. | 歯医者に行くと 麻酔薬がない |
You see what I’m saying? These people don’t have any antibiotics. | つまり黄金時代には まだ抗生物質がなかった |
さんざん憧れていた時代への不安を感じたきっかけが「抗生物質がないこと」というあたり、神経質キャラのウディ・アレンらしくて面白いオチですね。
ちなみに字幕1枚目のZithromax(ジスロマックス)は抗菌作用のある薬、2枚目のNovocaine(ノボカイン)は麻酔薬の名称です。アメリカではそれなりに認知度の高い薬なのかもしれませんが、日本では誰もが知ってるものではないのでここは「抗菌剤」「麻酔薬」と言い換えています。このように固有名詞を出すのか言い換えるのかは日本の視聴者にとってどれくらい理解されるか、ということも1つの判断基準になります。
セリフの多いこの監督の作品を面白いと思うたびに、会話をそのまま面白いと思えるのは翻訳という舞台裏で、多くの努力が積み重ねられていることを感じます。そんなふうに字幕翻訳者の方々に敬意を表しつつ、視聴者側として楽しめることを幸せに感じる1本です。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。
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