『アパートの鍵貸します』(1960年)
上役の情事の為に自分のアパートを貸しているしがない会社員バディ。それもみんな出世のため。だが、人事部長のシェルドレイクがつれ込んできたエレベーターガールの女性フランは、バディの意中の人だった。出世か、それとも恋人か、最後にバディが選んだ答えとは……?(公式Blu-rayより)
2023年も残すところあと1か月。今回は年末年始のニューヨークが舞台のクラシック映画『アパートの鍵貸します』(1960年)を取り上げたいと思います。ビリー・ワイルダー監督の代表作で、第33回アカデミー賞で作品賞、監督賞など5部門を受賞しています。字幕翻訳は柴田香代子さん(DVD版/20世紀フォックス ホームエンターテイメント ジャパン)です。
この時代の映画を見るといつも感じるのですが、そこまで集中して見ていなくても、なぜかしっかりと映像や物語が頭に残ります。理由はいろいろだと思いますが、1つは恐らく、この時代の字幕というのは今よりもっと字幕で出す情報量が少なかったせいではないでしょうか。その分ストレスなく映像、音楽、物語に意識が向いているのかと思います。
アウトの効果
例えば昔の映画では名前や挨拶、簡単な相槌など、今では確実に字幕を当てるような箇所もかなりアウトになっています。当時は短いセリフだからということで慣習的にアウトにされていただけなのかもしれませんが、それが効果的だなと思った箇所があったので、いくつかご紹介したいと思います。
不倫相手のシェルドレイク部長といったん別れた後、1か月半ぶりに彼に会ったフラン。彼に「髪を切ったね」と言われたあとの会話がこちらです。
シェルドレイク: You know I liked it better long. | シェルドレイク: 長い方がいい |
フラン: Yes, I know. | フラン: (アウト) |
ちょっと間をおいてフランがニコッとしながら言う“Yes, I know”は短いセリフですが、不倫相手の彼が長い髪が好きと知りながら髪を切ったと分かる、ある意味なかなか重要なセリフとも言えます。ですがこのあとも流れるように会話を続けるので、そこまで意味を持たせたくもありません。
字幕を出すなら「知ってる」「分かってる」「ええ」あたりかな…などいろいろ考えているうちに、なんだか下手に日本語でのセリフをあてるより、何も出さずにその分このフランの間の取り方や表情を見せるほうが、フランの心情を饒舌に伝えられるのではないかと感じました。
次は道ならぬ恋に悩み突発的に自殺騒ぎを起こしたフランが、その後に自分を世話してくれたバクスター(バディ)に向かって言うセリフです。
フラン: Why can’t I ever fall in love with someone nice like you. | フラン: あなたに恋してればよかった |
バクスター: Yeah, well | バクスター: (アウト) |
バクスター: I guess that’s the way it crumbles ── cookie-wise. | バクスター: 物事は成り行きだからね |
寝込んでいたフランに不意打ちのように言われ、少し動揺しながらYeah, well.. というバクスター。尺はそれなりにありますが、ここに何か字幕が入っていたらどうでしょう。「そうだね」でもないですし、「まあ…」くらいなら意味的には邪魔にはなりませんが、何だか無粋な感じがします。
次に来る「物事は成り行きだからね」は物語のラストにもまた出てくる伏線のセリフなのですが、Yeah, well.をアウトにすることで、最も重要な前後のセリフが際立っています。
ちょっとした演出
ちなみにこの「物事は成り行きだからね」that’s the way it crumbles ── cookie-wise.(直訳すると「そうやって砕けるものだよね、クッキー的に言うと」=「人生ってそういうものだよね」)が原音で出てくるのは2回ですが、字幕では「成り行き」という訳語を使っている箇所がもう一つありました。
シェルドレイクに「君は独身でいいな、悩みもなくて」と言われ、適当に話を合わせるバクスターがつぶやくセリフです。
バクスター: Yes, sir. That’s the life, all right. | バクスター: 成り行きです |
ここは必ずしも「成り行き」としなくてもよさそうな原音なので、おそらく作品決めセリフである「物事はすべて成り行き」に寄せたのかなと思います。こうやってちょっと情報を補足したりする演出も、遊び心があって面白いですね。
情報の足し算と引き算
字幕翻訳を学んでいると短い文字数でどれだけ多くの情報を出せるか、という“情報の足し算“にばかり意識がいきがちです。でも人間の脳というのは一定以上の情報を一度に理解するのには限界があり、1枚の字幕に複数の情報を入れると、たとえ文字数が収まっていたとしても情報過多で逆に理解がしづらくなってしまう場合があるので、そういう時はあえて情報を減らす“引き算”が必要になってきます。
本作では他にも翻訳者泣かせの長い名前の呼びかけ「Mr. Sheldrake」(シェルドレイクさん)、挨拶の「Good night」(おやすみ)、タクシーを呼ぶ際の「Taxi!」(タクシー!)などのセリフに対して、気持ちいいくらいにアウトが使われていますが、それがちょうどいい抜け感のようなものになっています。
今ではここまでアウトを多用するのはなかなか難しいと思いますが、“情報の引き算”という感覚をつかむために、こういったクラシック映画を見てみるのもいいかもしれません。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。
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