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【字幕翻訳者たちとの思い出】第12回 太田直子さん 〜最後までコトバと格闘した人〜

この記事は、書籍『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』の著者:小川政弘氏にその外伝として執筆いただきました。

連載第12回は、太田直子さんです。

太田直子さん  『字幕に愛を込めて』記載
字幕翻訳を手がけた主な作品に、ワーナー・ブラザースでは『グリーン・カード』、『マイケル・コリンズ』、『ペリカン文書』、『ケイティ』、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』、『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』、『愛に迷った時』、『ボディガード』、『天使にラブ・ソングを…』、『ジャック・サマースビー』、『デーヴ』、『ベオウルフ/呪われし勇者』、『コンタクト』、『迷い婚 ―全ての迷える女性たちへ―』、『ダイヤルM』、『HERO』 (中国語字幕監修)、 『LOVERS』(中国語字幕監修)。他社作品では『17歳のカルテ』、『最後の冬の日々』(ロシア語)、『モスクワ・天使のいない夜』(ロシア語)、『エルミタージュ幻想』(ロシア語)、『真珠湾攻撃』、『ミッドウェイ海戦』、『カフェ・ブダペスト』(ハンガリー語)、『裏町の聖者』(広東語)、『グリーン・デスティニー』(北京語)、『パパってなに?』、『ワン・ナイト・ハズバンド』(タイ語)、『精霊の島』(アイスランド語)、『頭目』(タミル語)、『迷いの果てに』(モンゴル語)、『水の中のナイフ』(ポーランド語)、『CLUBファンダンゴ』(ドイツ語)、『デスペラード・スクエア』(ヘブライ語)、『恋に落ちる確率』(デンマーク語)、『タッチ・オブ・スパイス』(ギリシャ語)、『シュレック2』、『バイオハザード2』、『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(ドイツ語)、『ライフ・イズ・ミラクル』(ボスニア語、セルビア語)、『ロンゲスト・ヤード』、『マチュカ』(スペイン語)、『アザーズ』、『プロフェシー』、『至福のとき』、『モンスーン・ウェディング』、『初恋のきた道』、『父、帰る』、『エイプリルの七面鳥』、『101匹わんちゃん』、『ロード・オブ・ウォー』、他多数。

目次

ロシア文学者の夢破れて字幕翻訳者に

字幕翻訳者になるきっかけは、これまでのご紹介でも分かるように、人さまざまです。当然、字幕翻訳者になりたくてなった人が多いのですが、中には“変わり種”も。太田直子さんもその一人で、天理大学の外国語学部ロシア学科を卒業し、さらに早稲田大学大学院で学び、将来はロシア文学者になりたかったのですが、あえなく挫折。

アテネ・フランセでアルバイトを始め、いろいろな事務系雑用と共に、そこでやっていた字幕制作のプロセスをのぞいているうち、字幕翻訳に興味を持ったのがきっかけだったとか(ちなみに、この会社の字幕はちょっと変わっていて、フィルムに字幕を打ち付け・焼き込みをするのではなく、スクリーンのそばに字幕用の垂れ幕(これぞホンモノの字幕!)を下げて、そこに字幕だけを映し出すのです)。

そこから色々字幕翻訳の道が開けていくのですが、ワーナーが彼女にお願いするようになったきっかけは、まずはホームビデオ用の翻訳でした。

ホームビデオの翻訳に惚れ込んだ!

劇場用映画の字幕制作会社は幾つかありましたが、中には、連載第3回の菊地浩司さんの項で紹介した、新人売り出しの面倒を見てくれた親分肌の女社長さんの会社や、自分のところで契約翻訳者を抱えて、本来のフィルム字幕のほかに、当時新マーケットとして需要の増え始めたビデオ字幕制作に乗り出した、JOT(ジャパン・オリジナル・テクニック)という会社もありました。

太田さんはこのJOTでも翻訳者の一人として仕事をしていたのですが、ある時そこの社長さんから、「小川部長、うちに、なかなか翻訳のうまい新人がいるんだけど、ビデオで一度使ってやってくれませんか」と依頼がありました。それが太田さんでした。それで、ビデオで1作お願いしてみたのですが、その翻訳が実にうまかった! 私はすっかり惚れ込んで(?)、ビデオで数本お願いしたあと、思い切って劇場用映画に“抜擢”しました。

それが、1991年8月公開、ピーター・ウィアー監督、ジェラール・ドパルデュー、アンディー・マクダウェル主演の『グリーン・カード』でした。園芸家で、安くて温室のあるアパートに住みたいブロンティは、そのアパートが単身者では入居できないため同居人が必要。一方、フランスからやってきたアーティストのジョージは、長期滞在の外国人永住権(グリーン・カード)を得るためにアメリカ人の妻が必要。そこで二人は書類だけの偽装結婚をして一緒に住み始めるが……というロマンティック・コメディー映画で、第48回ゴールデングローブ賞作品賞、主演男優賞受賞を受賞した、夏休み期待の大作でした。この作品で、彼女はワーナー劇場用翻訳者として輝かしいデビューを果たしたのでした。

ワーナーで彼女の翻訳者歴に箔がついた?

……というのはいささかおこがましいのですが、上記の翻訳作品リストをご覧いただけば分かるように、彼女の他社作品はほとんどがインデペンデント系の配給会社のもので、メジャーのものはワーナーだけだったことが分かります。それは裏を返せば、以前も言ったように、新人翻訳者にとって、それほどメジャー映画会社への門は狭かったということです。

彼女の劇場用映画デビューの1991年から、私がワーナーを退職する2008年までの17年間に、彼女にお願いしたタイトルは、上記リストのように、偶然にも17本でした。年平均1本はお願いしたことになりますが、その中でも、ワーナーとしては超大作に当たる作品が、数本ありました。ケヴィン・コスナー/ホイットニー・ヒューストンのサスペンス・アクション作品『ボディガード』、そしてジョディー・フォスター/マシュー・マコノヒーのSF作品『コンタクト』です。

それ以外にも、大作にランク付けされる作品が多く、いきおい拙著『字幕に愛を込めて』のワーナー・ブラザースベスト125作品の中にも、彼女の翻訳した作品は*を付けた上記7作も紹介されることになりました。その中でも『デーヴ』の初号(最初の字幕入りプリント)試写で、日本代表だったアイアトン氏から、じきじきお褒めの言葉を頂いた話は、本に記したとおりです。

なぜ彼女の翻訳はこのように高く評価されたのでしょうか? それは、彼女のたぐいまれと言っても過言でない日本語のセンスでした。限られた字数で、登場人物が言わんとしていることを、端的に、分かりやすく、しかも時には格調高く、時にはユーモアたっぷりに字幕に置き換える能力は、ひそかにロシア文学者を志した頃から、優れた古今の文学を読みあさり、また刻々変わる現代語に対しても、絶えずアンテナを張り巡らしていた研鑽の賜物でしょう。

多言語翻訳者として彼女の右に出る者なし

ちなみに、ちょっと彼女の他社翻訳作品の言語をご覧ください。彼女が最も喜んだロシア語をはじめ、ヨーロッパ語圏から中東語、中国語、韓国語(リストには載せていませんが)に至るまで、彼女の計算では13か国語に及んだとか。

多言語翻訳では、第5回紹介の岡枝慎二さんが知られていましたが、太田さんは遥かにそれを超えました(もっとも、彼女はそれらの言語全てに堪能だったわけではなく、多言語翻訳の場合、たいていは英語訳の台本を参考にしましたが)。これは、日本で開催される外国映画祭の出品作品は、たいていプリント1本だけで直しがきかないため、いきおい初訳の完成度の高い翻訳者が求められるからです。彼女の優れた日本語力に目をつけた出品会社が翻訳を依頼したゆえんです。

それにしても、このような多言語・多文化の国々の言葉に向き合うことを通して、彼女の“言葉”へのセンスが磨かれていったであろうことは、想像に難くありません。

字幕翻訳の合間に書いた本で、彼女の言葉の才は花開いた

さらに彼女の言葉の才が花開いた、と言うより“爆発”したのは、字幕翻訳の合間に書かれた著書でした。実は彼女は無類の酒好きだったのですが、しらふの真剣勝負で字幕翻訳を一段落させた真夜中頃から、彼女はちびりちびり(ゴクリゴクリ?)とやりながら、字幕翻訳よもやま話をひそかに書き始めたのです。

正確には、若い世代のあいだで次第に言葉への感性が薄れていき、ヘンな言葉遣いが蔓延し、美しい日本語が消えていくことへのいら立ち、憤懣を、飲むほどに回るアルコールの力を借りて、ワープロ紙上にぶつけたもので、それが周囲の勧めもあり、ついに私が退社する1年前の2007年、光文社新書として出版されました。それがちょっとしたベストセラーになった『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』です。

私は早速目を通して、随所で笑い転げながら、一気に読み終えました。彼女に「面白かった!」と伝えた時の、彼女のうれしそうな顔が忘れられません。売れるかどうか、言いたい放題の内容が業界に受け入れられるかどうか、といろいろ不安があったようですが、私のひと言でほっと胸をなで下ろしたそうです。

その後も彼女の文才にはいよいよ磨きがかかり、ユーモアたっぷりの言葉の世界に、多くの人がハマって、亡くなって3年後に、この処女作に彼女の遺構を編集追加した改訂版『字幕屋のホンネ』も含め、さらに5冊の本が出版されました。ご参考に、その情報ページを載せておきます。

才女薄命 日本の字幕界は惜しい人を亡くしました

彼女のご出身は広島県の鞆の浦でした。毎年、年賀状を交わす新年には、彼女はお里帰りをしていて、いつも返事は、そこから、彼女の筆になるふるさとの海、瀬戸内海の絵のスケッチに添えて、「鞆の浦にて」の言葉と共に送られてきました。私は恥ずかしながら、この地名が読めませんでした。いつかのテレビのニュースで、この港町の風景が出てきて、その時初めて「とものうら」の読み方が分かりました。彼女の家は、古くからの由緒ある大きな造り酒屋でした。あの風景に映っていた何軒かのうちの一軒が、そうだったのかもしれません。

それかあらぬか、生まれた時から酒麹の香りをかいで育った彼女の血は、親アルコール性だったのでしょう。彼女はやせていて、たぶんに食べ物の代わりにお酒がエネルギー源だったふしがあります。でもそれは、言わずもがな、長年にわたって過度にたしなんでいると、いつかは体を壊します。私が2016年の彼女の死を知ったのは、『字幕に愛を込めて』執筆のために連絡を取った翻訳者の方から聞いた2018年、彼女の死の2年後でした。ウィキペディアに載っていたその死因を読むと、やはり過度のアルコールが引き金になったのだろうと思いますが、彼女の死を知ったときは、思わず「惜しい人を…」と絶句しました。享年57歳。あとには、優に800本を超える彼女の字幕作品と共に、6冊の本が“遺産”として残りました。

同じくアルコールで命を縮められた高瀬鎭夫さん(第1回紹介)と同じように、彼女もまた、文字どおり三度のメシより好きだったお酒が、これからというときに、彼女の命を奪うことになりました。けれども、その酒の力で、自分に与えられた字幕翻訳の仕事(彼女の好きな言葉で言えば「字幕屋」人生)への愛を書き残すことができたのは、彼女にとっても、映画を愛する人々にとっても、幸いだったと言えるのではないでしょうか。たとえ憤懣だらけの文章だったとしても、それは彼女の映画字幕への愛の裏返しだったと私は思います。

もって瞑すべし。この一文は、今は亡き彼女へのオマージュとして、謹んでささげたいと思います。

【執筆者】
元ワーナー・ブラザース映画製作室長
小川 政弘(おがわ・まさひろ)
1961年〜2008年、ワーナー・ブラザース映画会社在職。製作総支配人、総務部長兼任を経て製作室長として定年退職。在職中、後半の31年にわたって2000本を超える字幕・吹替版製作に従事。『ハリー・ポッター』『マトリックス』『リーサル・ウェポン』シリーズ、『JFK』『ラスト・サムライ』『硫黄島からの手紙』二部作等を監修。自身も『偉大な生涯の物語』『ソロモンとシバの女王』『イングリッシュ・ペイシェント』『老人と海』などの作品を字幕翻訳。著書に『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』(イーグレープ)、『字幕翻訳虎の巻 聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』(いのちのことば社)などがある。

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