エピローグ
皆さん、こんにちは。小川政弘です。アメリカのメジャー映画会社、ワーナー・ブラザース映画に46年半在籍して、2008年3月に定年を1年半延長して円満退社しました。後半の31年間、製作室にいて、2,000本を超える映画の字幕、吹替版製作に従事し、幾多の名作・傑作映画に出会い、また多くの字幕翻訳者と誼を結ばせていただきました。もう故人となられた方、字幕翻訳から足を洗われた方もおりますが、多くはまだ現役で、いよいよ磨きがかかって活躍しておられる方もたくさんいます。
かく言う私も、現役時代から、字幕翻訳者から翻訳のノウハウを盗むようにして覚え、現在まで50本近い翻訳を手掛け、またその後に生まれてきた字幕翻訳者養成学校でも、後進の指導に当たっています。そして、これも現役時代からの夢だった字幕翻訳の本を執筆する機会に恵まれ、2018年に『字幕に愛を込めて』、2020年に『聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』を出版することができました。特に『字幕に愛を込めて』では、ワーナー製作31年の間に翻訳のお仕事でご一緒にできた翻訳者の方々のエピソードなども書かせていただきましたが、この度は、機会を頂いて、この方々との思い出をインターネット上でも活字で語らせていただくことになりました。いわば『字幕に愛を込めて』の“外伝”として(ダブるところは多々ありますが)、月に1度、ご紹介しますので、ご一緒にお楽しみいただければ幸いです。
一つあらかじめお断りし、またご了解いただきたいのは、私の話すことははっきり申し上げてもう半世紀近く古いお話で、最近のホットなご活躍については、触れることができないということです。それは皆さんが、この方々の訳された劇場やDVD、あるいはネット配信の良き字幕によって、直接ご覧いただくことにしたいと思います。
GHQも認めた英語力の持ち主
第1回の今月は、高瀬鎮夫さんです。この方のお名前を知っている人は、もう少ないかもしれません。何せワーナーで活躍なさった最後は1980年、今から40年も前ですから。でもこの方を抜きに、外国映画の字幕は語れないのです。
外国映画の字幕は、戦前からありました。けれども、太平洋戦争が始まって敵性外国映画の輸入は禁止され、再び楽しめるようになったのは戦後間もなくのことです。しかし日本はアメリカに占領され、GHQ(連合国軍総司令部)の管轄下にありましたので、映画会社が、戦前のように、それぞれ独立して営業を始めるにはまだ時間がかかりました。しばらくは、CMPE(Central Motion Picture Exchange)という機構のもとで、各映画会社が、ワーナー部門、MGM部門、のように一部門として営業していたのです。そのCMPE配給のワーナー映画戦後第1作は、1946年6月公開の『カサブランカ』。そこで語られたセリフの名字幕が、今はレジェンドとなった「君の瞳に乾杯」、そしてその翻訳者が、言わずと知れた高瀬さんでした。
高瀬さんは、戦前の東京外国語学校英語科卒で、学生時代から英語の達人だったそうです。戦争中は、通訳として徴用され、南方の占領地で、収容所の捕虜たちとの交渉などで大いに用いられたと聞きます。
戦後、日本に帰国すると、GHQにその英語力を認められ、外国文化に飢えていた日本人に洋画を楽しんでもらうために設立された、前述のCMPEが発注する日本語字幕翻訳者として、活動を開始します。字幕翻訳には独特の翻訳上の約束事(字数厳守など)があります。高瀬さんがどこでそれを習得されたのかは聞きそびれましたが、持ち前の英語力と、ユーモアセンスあふれるあか抜けた日本語表現力で、たちまちワーナーやユナイテッド・アーティストなど、メジャー洋画会社の字幕翻訳を一手に請け負うことになりました。それはやがて1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を果たし、各映画配給会社が独立して営業を開始してからも続きます。それと共に洋画の配給本数も、メジャーの他に日本人が経営するインデペンデント(独立系)配給会社の買い付け作品も含めて、どんどん増えていったので、高瀬さんは一時期、複数の字幕翻訳者を擁するCPP(Central Production Pool)という字幕翻訳プロダクションを立ち上げて、会社として翻訳業務を受注するまでになりました。そして彼のもとで、のちにご紹介する金田文夫さんなど、何人かの愛弟子も育っていきました。
戦後、日本の映像業界というのは、まず映画、それからテレビというジャンルが生まれ、さらに数十年してビデオが登場しますが、面白いことに、このように配給・放映の業務形態が違うと、翻訳者の“縄張り”も違うのです。映画、テレビ、それぞれに翻訳者がいて、特にテレビのほうには、いち早く吹替版も登場して、吹替翻訳という新しい分野も生まれました。そんな中、劇場用映画の分野では、字幕翻訳者はほんの一握り、10人に満たない特殊な世界でした。その劇場映画の字幕のほとんど、7割以上を手掛けていたのは、まるで東西の横綱のような二人の達人、高瀬さんと、清水俊二さんでした。お二人とも、映倫(映画倫理管理委員会、現・映画倫理機構)の審査委員をなさりながら、フリーの字幕翻訳者として、戦後の字幕翻訳界で、長い間活躍されました。
試写室にボトルを常備するほどのお酒好き
高瀬さんにまつわる思い出は、いろいろあるのですが、なんと言ってもお酒が大好きでした。ワーナーの試写室の食器棚には、バーのボトルキープよろしく、ご自分のボトルが常時おいてありました。そして試写室に入ると、ちびりちびりやりながら映画をご覧になる。だから彼のお顔は、いつ見てもピンク色で、はなはだ血色がよかったです。でもそんなアルコール漬けの生活を何十年も続けると、さすがにお体を壊します。まず手が震えだして、当時は字幕翻訳原稿は皆原稿用紙に手書きだったのですが、最後の頃は字が震えて次第に判読できなくなり、お嬢さんが清書していました(その代わりに奥様は達筆で、筆ペンで流麗にお書きになりました。今でも記念に保存しています)。
結局お酒がもとで60代後半でお亡くなりになり、少なくとも10年は命を縮められましたね。私たちも、彼の名訳をその分見そびれることになりました。まあ三度の飯より好きなお酒の力で数々の名字幕を残し、お酒に引導を渡されてあの世に行ったのですから、ご本人には“酒飲みの本懐”だったかもしれません。
『シャイニング』の逆翻訳台本
ワーナーは、高瀬さんには、1980年まで30年以上にわたってお世話になり、数々の名作を残してくれました。不世出の青春スター、ジェームズ・ディーンの『エデンの東』を始めとする三部作、ヘミングウェイ原作の『老人と海』(これは私ものちに、当時あった16ミリ映画用に訳し直しました。本人の翻訳原稿がもう処分されていたからです。おかげで、ヘタな訳を比較されずに済みました(汗))、オードリー・ヘップバーンのミュージカル『マイ・フェア・レディ』、ワーナーが先鞭をつけたブームものの『燃えよドラゴン』(カンフー)、『エクソシスト』(オカルト)、『タワーリング・インフェルノ』(パニック)、などなど……。
そんな中で、最晩年に手がけられたのが、かのスタンリー・キューブリックの『シャイニング』でした。この時に、完璧主義者のキューブリックが要求してきたのが、もはやレジェンドになっている“逆翻訳”台本です。すなわち、「翻訳者の日本語翻訳を逆にまた英語に翻訳し直して、オリジナルの英語と比較対照したものを送れ」という前代未聞のお達しでした。他の翻訳者だったら、即座に音を上げたでしょう。このあとのキューブリック作品では、”餅は餅屋”で、アメリカ人のトランススクライバー(英語のセリフをヒアリングして英文台本を作る人)がやってくれましたが、高瀬さんはこれを、流ちょうな英語を駆使して、直接キューブリックと渡り合い、全部自分でやってのけました。救われたのは、まだ製作室に移って間もなく、海外との英語のやり取りもままならない私でした。
「環境的等価」翻訳
最後に触れたいのは、高瀬さんの翻訳理論です。彼は自ら名付けて「環境的等価」翻訳と呼んでいました。以下に、拙著『字幕に愛を込めて』の一節を一部言い換えて引用します。
翻訳は、“原文に忠実に”をモットーにするが、英語をはじめ、外国語は、その背景に、私たちとは異なる政治的・文化的・宗教的バックボーンを持ちます。だから、オリジナルの環境で用いてこそ意味を持ち、理解される言葉を、そのまま別の環境で用いても、意味はなかなか通じません。したがって、“翻訳される国の環境において、同一の意味を持つ概念(等価概念)に置き換えて訳す”ことが必要なのです。
高瀬さんの翻訳が、作品のジャンルを問わず、常に自然な日本語で、しかも日本人の思考様式で容易に理解できるものだったのは、その基礎に、この大切な理念があったからだったのだと、今更ながら敬服の念を禁じ得ません。
【執筆者】
元ワーナー・ブラザース映画製作室長
小川 政弘(おがわ・まさひろ)
1961年〜2008年、ワーナー・ブラザース映画会社在職。製作総支配人、総務部長兼任を経て製作室長として定年退職。在職中、後半の31年にわたって2000本を超える字幕・吹替版製作に従事。『ハリー・ポッター』『マトリックス』『リーサル・ウェポン』シリーズ、『JFK』『ラスト・サムライ』『硫黄島からの手紙』二部作等を監修。自身も『偉大な生涯の物語』『ソロモンとシバの女王』『イングリッシュ・ペイシェント』『老人と海』などの作品を字幕翻訳。著書に『字幕に愛を込めて 私の映画人生 半世紀』(イーグレープ)、『字幕翻訳虎の巻 聖書を知ると英語も映画も10倍楽しい』(いのちのことば社)などがある。