『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)
2003年。ハーバード大学に通う19歳の学生マーク・ザッカーバーグは、親友のエドゥアルド・サヴェリンとともにある計画を立てる。それは友達を増やすため、大学内の出来事を自由に語りあえるサイトを作ろうというもの。閉ざされた“ハーバード”というエリート階級社会で、「自分をみくびった女子学生を振り向かせたい」──そんな若者らしい動機から始まった彼らの小さな計画は、いつしか思いもよらぬ大きな潮流の最中へと彼らを導く。IT界の伝説ナップスター創設者のショーン・パーカーとの出会い、そして、社会現象を巻き起こすほどの巨大サイトへの成長。一躍時代の寵児となった彼らは、若くして億万長者へと成り上がっていく。と同時に、最初の理想とは大きくかけ離れた孤独な場所にいる自分たちに気づくが──。(公式Blu-rayより)
映画『ソーシャルネットワーク』は、Facebookの開発とそれにまつわる訴訟の過程を、実話をベースに描いた伝記映画です。舞台となる2000年代前半はSNSが急拡大した時期で、その後Facebookは世界最大のSNSに成長します。創業者のマーク・ザッカーバーグは世界最年少の億万長者となりました。
本作は専門的な内容が多くIT用語も頻出するうえ、ジェシー・アイゼンバーグ演じる主人公マークのセリフ回しがものすごく早く、情報量が膨大です。専門用語等については翻訳の際に監修が入っているようですが、それでも翻訳作業が相当大変だったことは想像に難くありません。字幕翻訳は松浦美奈さんが手がけています。
本作の制作は2010年。インターネットはとっくに一般化していましたが、さらにスマホも定着して、デバイスの中心がPCからスマホに移り始めた頃でしょうか。AIについては、AIという言葉が一般の人の耳にも届き始めてはいたものの、まだ生成AIは登場しておらず、今ほど日常生活への実用化がなされていなかった頃です。 テクノロジーはその後も進化し続け、特にAIの台頭は今となっては映像翻訳業界でも無視できない話題の1つです。そこで今回は、もし今この作品を訳すとしたら、テクノロジーによって少しは楽になるんだろうか?という視点をまじえつつ、見てみたいと思います。
AIは優秀な調べ物アシスタント
まずAIによって作業が楽になるものといえば、調べ物。本作は実話を基にしているので、主人公のマーク・ザッカーバーグをはじめ、共同創業者や訴訟相手など実在の人物が出てきます。中盤からナップスターの創業者ショーン・パーカーが出てきますが、彼のバックグラウンドはセリフ内で少し触れられるだけで、詳しくは出てきません。
ですが翻訳するにあたってはそのあたりも知っておかないと訳しづらいものです。映像翻訳ではこういった「本編に少し出てくるけど、ちゃんとは語られていない部分の把握」が必要になります。
そこで生成AIに「ナップスターの創業者について教えて」と聞いてみます。するとショーン・パーカーや他にもいる共同創業者、そしてナップスターがどういう経緯を経て閉鎖になったのかなど、人物リストや年表なども使って一瞬で分かりやすく出してくれます。
もちろんAIの情報がすべて正しいとは限らないので、セリフに関わる部分はその情報源を確認してさらに正確性を精査していきますが、ざっくりとした概要をつかむだけであれば、ここまでだけでもかなりの情報が得られます。
専門用語の深掘り
次に本作に出てくる専門用語。下記のような単語がバンバン出てきます。
- Apache(アパッチ)
- wget(wgetコマンド)
- Perl(パール)
- Virtual address(仮想アドレス)
- modified bit(修正ビット)
単語の意味自体はインターネットがあれば調べられます。ただ実際の翻訳において悩むのは「それらの単語がどういう文脈で使われるのか」ということ。この点はAIを使うと多様な聞き方ができるので、深堀りしやすくなります。
例えば下記は大学の講義のシーン。教授が例題を出しているセリフです。
教授: Suppose we’re given a computer with 16-bit virtual address | 仮想アドレス 16ビットのコンピュータ |
and a page size of 256 bytes. | ページサイズは256バイト |
字幕:松浦美奈
いくら英語どおりに訳したとしても、「仮想アドレス」「16ビット」「ページサイズ」「256バイト」の関係性がある程度イメージできないと、言葉の並べ方が合っているか不安が残ります。
そこで試しにAIに「仮想アドレスとビットってどう関係してるの?」という方向で聞いてみます。すると「仮想アドレス」と「ビット」それぞれの意味から始まってその関係性、具体例、補足情報、そして結論まで、順序立てて いろんな角度からの説明を出してくれました。そうすると作った字幕が意味を成しているかどうか確認できますし、そこからまだ疑問があれば質問でさらに深堀りもできます。
もちろんそれでも理解には限界があるので、実際には専門の方に監修に入ってもらうのが一番安全です。ただすべての作品に監修が入るわけではないですし、時間的に詳しい人に聞けないケースも多々あります。そんな時、AIを活用すると難解な 用語まわりの概要を把握するのにかかる時間をかなり短縮できます。
情報を短く要約する
では翻訳に関してはどうでしょう。字幕翻訳の特徴は文字数制限があること。最近のAIは「~文字以内に収めて」などのプロンプト次第で要約もしてくれますし、いろんなバリエーションを出してくれるので、短くすること自体は可能です。ただ問題はどのように要約するかですよね。実例を挙げて見てみます。
下記は映画の冒頭、主人公のマークと彼女のエリカが口ゲンカをするシーン。マークはハーバード大学、エリカはボストン大学の学生で、マークは大学のどの学生クラブに入れるか、ということで頭がいっぱいですが、エリカはクラブの重要性に懐疑的です。
エリカ: Why don’t you just concentrate on being the best you can be? | 自分なりに努力すれば それで十分よ |
マーク: Did you really just say that? | マジかよ |
エリカ: I was kidding. Although just because something’s trite it doesn’t make it any less … | 冗談よ でも ある意味で真実 |
マーク: (1) I want to try to be straight forward with you and tell you that I think you might want to be a little more supportive. | もっと応援してくれても いいだろ |
(2) If I get in I’ll be taking you…to the events, and the gatherings. | 入会したら いろんな人に 会わせてやる |
(3) And you’ll be meeting a lot of people you wouldn’t normally get to meet. | 君とは別世界の人に |
字幕:松浦美奈
それまでエリカは、マークに違和感を覚えつつも話を合わせて穏やかに会話していましたが、この「君とは別世界の人に」の一言で自分が見下されてると感じ、空気が一変します。ですがそんなエリカの反応に気づかずしゃべり続けるマークはさらにエスカレートした発言をして、ついにはエリカに振られてしまう、というシーンです。
まずは(1)から(3)のマークのセリフ全体を、AIに「3つに分けて字幕っぽく訳して」と聞いてみると下記の通り。
(1)
率直に言うけど、
もう少し応援してほしいんだ。
(2)
もし上手くいったら、イベントや集まりにも
君を連れて行ってあげるから。
(3)
普段は会えないような人たちにも
たくさん会えるんだよ。
次に(3)の「you’ll be meeting a lot of people you wouldn’t normally get to meet.を10文字以内に収めて」と聞いてみます。出てきた候補はこちら。
- 滅多に会えない人に
- 凄い人に会えるよ
- 人脈が広がるよ
短くはなりましたが前の文とつながってないものもあるので、「意訳していいので、もうちょっと前の文からつながる感じにして」と聞いてみます。すると、
- 世界が変わるよ
- 顔ぶれが違うから
- すごいチャンスだよ
意訳はされていますが、これだとケンカの原因としては弱いので、「相手を怒らせるようなニュアンスを加えて」とします。
- 格が違うから
- 世界を見せてやる
- 誰のおかげかな?
だいぶ近づきました。ただマーク本人はそこまで相手の気持ちを害してることに気づいていないので、さらに「本人は悪気なく言っていて、でも結果的に相手をちょっとイラッとさせるくらいにして」と指示してみます。
- いい経験になるよ
- 社会勉強になるし
- 君のためにもなる
今度は怒らせるきっかけとしてはまた弱くなっています。程度が難しいですよね。
このように何度も繰り返すといい線まではいきますが、ある程度納得する訳にたどり着くまで4~5回ほどプロンプトが必要なうえ、最終的に字幕として完全に成立させるにはなかなか手間がかかりそうでした。
「普段会えないような人」=「別世界の人」という変換は、人間からすると意訳というほどでもない、割と素直な訳に感じるのですが、AIにとってはそうでもないのが意外でした。
つまり人間の脳はこのプロンプトのように「直訳」→「字幕っぽく」→「10文字以内」→「相手を怒らせる発言」→「でも本人は怒らせたと気づいてない程度」ということをすべて盛り込んだ「普段会えないような人」=「別世界の人」という変換が一気にできるということです(もちろん松浦さんがこの訳を一瞬でひらめいたわけではないと思いますが)。「変換」の幅が、人間とAIではまだかなり違うのかもしれません。
単純な翻訳のスピードでは人間はAIに太刀打ちできませんが、逆に人間はAIにとって難しい翻訳をすごいスピードでやっているという側面もあるんだなと思いました。
テクノロジーとの共存
共同創設者である友人からの訴訟など、紆余曲折ありつつもFacebookの成功を収めたマークですが、映画のラストはマークがFacebookで元彼女のエリカのページを眺め、友達リクエストを送ろうとするシーンで終わります。Facebookの開発に邁進するなか、ずっとエリカの存在が頭の片隅に引っかかっていたことが分かります。
最新のテクノロジーを追求し、大きな成功を収めることができたマークでも唯一ままならないもの、それがエリカだったということかもしれません。あるいはこのラストは、自らが開発したFacebookというテクノロジーによって、またエリカとつながれる可能性が出てきた、とも取れます。
テクノロジーがどれだけ発達してもそれだけでは解決できないことがある。というのは人間の勝手な願望なのかもしれませんが、少なくとも現状ではAIにはできないことがあるのだと思います。そしてそれが、マークにとってのエリカのように、とても大きな意味を持っていたりします。
映像翻訳におけるAIが今後どうなっていくかはまだまだ読めませんが、良い面は認めながら、それでも人間にしかできない部分があると信じて追及していくことで、うまく共存しながら良い字幕を作っていける未来が開けるのではないでしょうか。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。
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