『きっと、うまくいく』(2009年)
日の出の勢いで躍進するインドの未来を担うエリート軍団を輩出する、超難関理系大学ICE。エンジニアを目指す天才が競い合うキャンパスで、型破りな自由人のランチョー、機械より動物好きなファルハーン、なんでも神頼みの苦学生ラージュー の“三バカトリオ”が、鬼学長を激怒させ、珍騒動を巻き起こす。 抱腹絶倒の学園コメディに見せつつ、行方不明のランチョーを探すミステリー仕立ての“10年後”が同時進行。根底に流れるのは学歴競争。加熱するインドの教育問題に一石を投じ、真に“今を生きる”ことを問いかける万国普遍のテーマ。(公式Blu-rayより)
今回取り上げるのは2013年に日本で公開されたインドのコメディ映画『きっと、うまくいく』。ハリウッドをはじめ世界中で大ヒットし、近年のインド映画が改めて注目を浴びるきっかけになった作品といえます。日本での上映も5か月におよぶロングランとなりました。字幕翻訳は松岡環さん、また字幕監修をいとうせいこうさんが担当されています。
本作の言語は、たまに英語も交ざりますが基本はヒンディー語。マイナー言語の作品は英語台本があるのでそれをベースに翻訳されることも多いのですが、この作品を担当した松岡さんはヒンディー語の字幕翻訳者です。内容を見ていくと「これは原語や文化を理解していなかったらかなり大変だろうな」と思える作品なので、そのあたりを見ていきたいと思います。
名前ひとつとっても意味がある
まず字幕翻訳で悩むことの1つが名前のカタカナ表記。よく基準として使われる『新・アルファベットから引く外国人名よみ方字典』は英語名が中心ですし、フランス語やスペイン語でも読み方のルールが違うのに、ましてやヒンディー語となると調べるのもそう簡単ではありません。
本作のメインキャラクター3人の名前は下記の通りです。
- ランチョー / Rancho
- ファルハーン / Farhan
- ラージュー / Raju
いずれもある程度音声とは一致していますが、「ランチョ」か「ランチョー」か、「ファーハン」か「ファルハン」か、もしくは「ファルハーン」なのか、それともどちらでもいいのか、ヒンディー語としての読み方の正解を知らないとどれにするかの判断に困りそうです。
またランチョーはニックネームで本名は“Ranchhoddas Chanchad”(ランチョールダース・チャンチャル)。読み方としては正直、お手上げです。これは本編内でも“変わった名前”とされていて、長いので完全なフルネーム表記(本当はさらにミドルネームが入ってもっと長い名前)を出せるところはあまりなかったようですが、英語台本だけ見て表記するのはかなり怖い名前ですよね。
さらにDVD付属の冊子にある松岡さんの記事によると、名前からランチョーとラージューはヒンドゥー教徒、ファルハーンはイスラム教徒ということが分かるそうで、つまり3人の友情は宗教を超えたものという部分も描かれてるそうです。実際それが物語の展開に直接関わることではなかったとしても、把握しているかしていないかでは、物語の見方も変わってくるでしょう。
例えの中に垣間見える文化
本当は動物写真家になるという夢があるのに、親からエンジニアになることを期待されてその道に進もうとしているファルハーン。ランチョーはそんな友人に、自分が本当に情熱を注げる道に進め、と言う時のセリフです。
もし国民的歌手ラター・ マンゲーシュカルが |
親にクリケット選手になれと 言われてたら |
今頃どうなってた? |
ほとんどの日本人はラター・マンゲーシュカルを知らないでしょうし、クリケットにもあまりなじみはありません。だたこの字幕からインドにはそういう国民的歌手がいて、さらにクリケットが盛んなスポーツだということは伝わります。
こういう場合はまったく違う人物やスポーツに置き換えるというのも翻訳としては1つの手です。ですがこのシーンの場合は流れから言いたいことは分かるので、置き換えずに出すことで例えとしての意味だけでなく、その奥にあるインドの文化が垣間見える字幕になっています。
単語のもじりから起きる笑い
本作はコメディなので、言葉をもじって笑いを起こすシーンがあります。ランチョーが学長の腰ぎんちゃくであるチャトゥルをからかって、彼が読む予定のスピーチ原稿にある「奇跡(チャマトカール)」を「強姦(バラートカール)」に変換し、さらに「ダン(財貨/字幕は「入金」)」を「スタン(乳房/字幕は「乳頭」)」に変換するというイタズラをします。海外育ちでヒンディー語があまり分からないチャトゥルは、そのまま丸暗記して全学生と学長の前でスピーチをするという笑いのシーンです。
ただ「強姦」というワードは近年のインドの事情を連想してしまって単純に笑えないワードなので、少しでも印象を和らげるためにDVDではカタカナ書きで「ゴーカン」としたそう。それでも他の単語に変えるという選択肢を取らなかったのは、すべてのワードがつながって笑いが起きているので訳出せざるをえないということだったようです。原語や監督の意図がしっかり分かっているからこその難しい判断だったことがうかがえます。
このあたりの一連のスピーチは長いので本編を見て頂ければと思いますが、各単語の意味をきちんと理解して全体のスピーチを作らないと、面白くならないシーンだなと感じます。
とても贅沢な字幕翻訳
監修でいとうせいこうさんが入ってるという点も面白いところです。本作のキーワードとなる「うまーくいーく」というセリフの原音は“All izz well(アール・イーズ・ウェル)”。DVDの冊子によると、これはイギリス統治時代に夜警が夜回りをしながら、町の安全を伝えるために言っていた言葉だそうです。最初に映画祭で本作がかけられたときは「すべてよし」にかけて「すべってよし」としていたのを、いとうさんは自分が悩んでる時に、もっと落ち着く言葉はなんだろうと考えて最終的に「うまーく、いーく」としたそうです。原音の響きにも似ていて、ハマったセリフになっています。
インド映画で監修というと、英語から字幕翻訳をつくり、そこにインドの言語や文化に精通した人が監修で入る、という図式であってもおかしくないところを、本作は翻訳の時点で原音をしっかりとらえた翻訳になっているうえ、さらに言葉をブラッシュアップするための監修が入るという、とても贅沢なつくりになっています。そのおかげでインドの文化や背景を端々に感じつつ、しっかり笑える字幕になっているのかと思います。
材料がなければ料理ができないように、やはり基本となるのは正確な原語解釈であり、その土台があってこそ魅力ある字幕が生まれるんだなと思える作品です。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。
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