「翻訳業」と聞くと、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。「英語を使う知的な仕事」、「好きなことを仕事にしてる職業」、またはフリーランスで働いてる人がほとんどなので「時間の自由がきく仕事」などなど、何となくカッコよくて素敵な仕事、というイメージを持つ人が多いかと思います。
しかし、そんな淡い憧れを鉄拳で打ち砕くかのように、翻訳業界の「リアル」を突き付けてくれるのがこの一冊です。
本書は1991年からフリーランスで出版翻訳者として活躍している実川元子氏が、自身の経験と10人の翻訳者へのインタビューを通して、翻訳業界の仕事とはどういうものなのかをまとめた本です。著者の専門は出版翻訳ですが、内容は翻訳業界の三大分野である「実務翻訳」「映像翻訳」「出版翻訳」について紹介されており、インタビューした10名の翻訳者もこの3つの分野のどれかで活躍中の人々です。
まず第一章の「翻訳業界のしくみ」では、この三分野ではそれぞれどんなクライアントから仕事が発生するのか、どういった作業工程があるのか、さらにはギャラの計算方法やそこからはじき出される月収の予測まで、なかなかデリケートな部分にも踏み込んで書かれています。翻訳という仕事に対する具体的なイメージが湧くとともに、シビアな一面も把握できる内容になっています。
実際問題、このグローバル化の時代、翻訳のニーズは至る所にあるはずなのに、現実には翻訳者の単価が下がったり、機械翻訳で代用されたりで、翻訳業だけで生計をたてていくのは簡単ではありません。特に三分野の中で需要自体が減りつつあると言われる出版翻訳について、著者はこのように言っています。
そもそも私がフリーランスになって、最初の翻訳書を出した1991年の時点でさえ、先輩翻訳者や編集者から「日本で、出版翻訳だけで食べていけるほど稼いでる翻訳者は10人くらいだろう」と言われ、出版翻訳者は絶滅危惧種認定されていた。―中略― 出版翻訳だけで生計を立てている翻訳者は、10年前にはそれでもトキ程度には散見されていたが、今ではニホンオオカミ並みだ。いるとは聞くが、名前は挙がらない。
これは出版翻訳の話とはいえ、ここまで読むと翻訳者を目指すモチベーションがしぼんでしまいそうです。しかし本書の目的は、現実を突き付けて翻訳者への道を諦めさせることではありません。第二章の「三つの呪縛を解き放つ」では、翻訳志望の人から寄せられる悩みや質問をベースに、本当に翻訳に必要なものとは何なのかが書かれています。
例えば翻訳者志望の方から大変よく聞かれる質問に「留学経験がないと翻訳者になれないでしょうか?」というのがあるそうです。これについて著者は「留学経験と翻訳者のレベルは関係ない」と結論づけています。著者自身、英語圏への留学経験がなく、そのせいでクライアントから語学力が十分でないと思われているのではないか、と長いこと負い目に感じていたそうです。そこからどうやってコンプレックスを克服し、語学力に対する自信を持つことができたのかという経緯が具体的に書かれています。似たような不安を抱える人にとっては、非常に参考になる経験談です。
最後の第三章「明日も翻訳者として輝くためには」では、翻訳業界の未来を憂いつつも、翻訳者として5年後、10年後に今よりもっと輝くためにはどのような心構えを持てばいいか、どんな工夫をしたらいいかが述べられています。一度しぼんだ翻訳者を目指すモチベーションは、このあたりまで読むとどんどん回復してくるでしょう。
需要の変化、ギャラの低下、機械翻訳の登場など、翻訳業界のネガティブな要素もたくさん書かれている本書ですが、それでもその文章からは著者の「翻訳業」に対する愛情と誇りが感じられます。本書でインタビューした10名の翻訳者も、さまざまな苦労話をした後で、最後に皆、口をそろえてこう言うそうです。
でも翻訳は本当に楽しい。面白い。やめられない。一生続けたい。
だからこそ、この楽しくも厳しい翻訳の世界を生き延びるために今何をすべきかということを書いた、著者の言葉を借りると「翻訳者サバイバルの指南書」がこの一冊なのです。
翻訳に興味を持ったばかりの人にも、すでに本気で翻訳業に進むことを考えている人にも、きっと何かしらの気付きを与えてくれるのではないでしょうか。
【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。