翻訳を学ぶ際、多くの場合は「訳文例」「回答例」と呼ばれるお手本となる良訳を参考にしていくかと思います。しかし、本書のコンセプトはその真逆で、「こんな日本語の文章を書いてはいけません」と、実際に生み出された悪訳を反面教師にし、わかりやすい日本語の文章とはどのようなものかを考える読本です。「裏返し文章講座」というタイトルも、このコンセプトに由来しています。本書は参考書ではなく読み物の部類に入りますが、字幕翻訳のスキルアップに欠かせない洗練された日本語力を、楽しみながら身につけるのに役立つ一冊です。
著者の別宮貞徳氏は、元上智大学文学部教授で出版翻訳で多数の訳書がありますが、一方で「誤訳の批評」でも知られている翻訳家です。特に、1978年から1998年まで雑誌『翻訳の世界』に毎月「欠陥翻訳時評」を執筆し、20年間で2000冊近くに及ぶありとあらゆる分野の、それも批評に値する悪文が綴られた翻訳書に触れてこられました。このことは、著者も「世の中のだれひとりやったことのない経験」「こればかりは大先生方にも負けません」と自身の経験を評しています。この膨大な悪文の中から選りすぐりのものをバッサリと批判しつつ、品格ある日本語の文章について考察することは、別宮氏だけが成せる仕事と言えるでしょう。
字幕翻訳に携わる上で、視聴者が映像を理解するために「字幕の日本語がわかりやすい」ということは、押さえるべき絶対条件です。しかし、「わかりやすい日本語」とは何なのかと聞かれて、そのものズバリを端的に答えられる人はそう多くないかもしれません。本書では、サブタイトルにもある「品格」という言葉で「わかりやすい日本語」を説明しています。わかりやすい日本語とは、品格のある日本語。つまり、しかるべき言葉が、しかるべき場所で、しかるべき用法に従って使われているということを本書では指しています。
具体的に悪訳の実例を、しかも著作名・訳者名も明かして、なぜその訳文に品格がないのかを歯切れのよい痛快な文体で説いています。悪訳例として用いられているのは、専門書や小説などの出版翻訳ですが、品格を落とす要因や背景となるものは字幕翻訳を含めた英日翻訳全体に対して通じるものがあります。例えば「翻訳の欠陥品は、消費者側に欠陥かどうか判断する力がない」ということも、品格を落とす要因のひとつとして挙げられています。難解でちんぷんかんな欠陥翻訳でも、視聴者はその良し悪しを判断することができません。クレームがつかないから悪訳が排除されないという理屈です。そのほかにも、言葉のリズムが失われた訳文や、筋道の通らない訳文などが取り上げられています。これらの悪訳を通した日本語の品格にまつわる学びが、本書には随所に散りばめられています。
また、巻末には日本語クイズが収録されています。日本語のネイティブスピーカーでも難易度が高いと感じるような問題がそろっており、力試しに適した付録です。例えば以下のような問題が掲載されています。
空所にしかるべき動詞を入れなさい。
1.不覚を( )
2.小手を( )
(正解は1.取る 2.翳す)
多くの翻訳関連書籍が「良訳」から学習できるように構成されているのに対し、本書のような「悪訳」から学ぶというコンセプトは、斬新なものといえるでしょう。しかし、「こんな日本語の文章を書いてはいけません」というポイントを押さえるだけでも、翻訳の品質向上はもちろん、日本語の文章を書くあらゆる場面でおおいに役立つことは間違いありません。別宮氏の痛快な調子で繰り広げられる批評をベースに、翻訳・学び・楽しさがすべて揃った読みごたえたっぷりの書籍です。文庫本サイズですから持ち運びもできます。日本語力アップを目指した自己研鑽にも、学習や仕事の合間の息抜きにも、どちらにもおすすめです。
【執筆者】
米原 春香(よねはら・はるか)
北海道大学大学院農学院修士課程修了。在学中は英語研究会所属。公的機関におけるバイオ・食品関連の研究員を経て、2017年より産業翻訳者・ライターに。産業翻訳では主にビジネス・食品・観光等の分野を扱う。最近では、企業プロモーションビデオ等の字幕翻訳も数件担当。映像コンテンツの需要が今後増すであろうと考え、これを機に映像翻訳系の書籍で少しずつ学習し始めた。