「あなたが作った字幕は、他と比べて何が優れているのですか?」
クライアントにこう尋ねられたら、あなたはどう答えますか? その答えは、クライアントを「なるほど!」と頷かせられますか?
「センス」や「経験」に頼らずに、字幕翻訳の技能と理論を客観的に解説しているのが本書です。字幕翻訳を系統立てて理解したい方に役立つ解説書となっています。
かれこれ50年以上、字幕翻訳の勘所は「センス」や「経験」で語られてきました。それが成り立っていたのは、字幕翻訳は付加価値の高い技能であるという、漠然とした日本社会の共通認識のおかげだったと言えます。しかし同時に、「字幕翻訳の何が特殊なのか」「成果物の良し悪しを分けるのは何か」について論理的に分析する機会を逸してきたことも意味します。さらに現代は、人工知能(AI)の発達も顕著な時代。言い換えれば、「あなたが作った字幕は、他の方法で生成されたものと比べて何が優れているのですか?」という問いに対し、論理的な答えを翻訳者が自分で導き出せるということが、これまで以上に大きな意味を持つ時代でもあります。海外映像作品と視聴者の距離をグッと近づける優れた字幕は、一体どのような技能と理論に裏打ちされているのか。これを明らかにすることは、映像翻訳の職能を語る上で今後ますます重要になるでしょう。
字幕翻訳は、人間にしかできない言葉の技能であることを明文化する──すなわち、 「センス」や「経験」で語られた「暗黙知」を、方法論で語る「形式知」へ落とし込むと同時に、字幕翻訳の職業的価値を社会に示すことを、本書は目指しています。
著者である日本映像翻訳アカデミーは、1996年設立の映像翻訳専門スクールです。実務で活躍するプロの経験に加え、30本以上の言語的研究を中心とした参考文献に基づいて、本書は執筆されています。
冒頭では、字幕翻訳のあらまし・位置づけや、業界における基本的事項を扱っています。そのため、映像翻訳の世界に初めて足を踏み入れる方でも、業界のバックグラウンドを理解してから、具体的な技能や理論を読み進めることが可能です。
本書のハイライトは、字幕翻訳の技能と理論についての詳細な解説であり、字幕翻訳実務と言語学的理論の両方を丁寧に分析した上で述べられています。まず翻訳のプロセスを、言語学者による先行研究と照らし合わせて、「全体的ストラテジー」と「局所的ストラテジー」に大別。「全体的ストラテジー」では、映像コンテンツの「内容と構成」および「翻訳のトーンとマナー」に触れ、訳出上注意したいポイントを押さえることができます。そして「局所的ストラテジー」として、字幕を作る上での個別の問題に対処する方法を紹介。実際の字幕を例として使用し、次の4つの観点で多角的に描写されています。
テクストタイプ:原文が持つ機能を4つに分類し、どの機能が優勢かを考慮します。
考慮すべき側面:字幕を制作する際に、言語や社会・文化、視覚的要素などの側面を考慮します。
受容化/異質化:読み手に馴染みのない原文の文言を排除し分かりやすく仕上げる方向(=需要化)か、あるいは原文を重視し読み手に馴染みのない文言を維持したまま訳出する方向(=異質化)かを考慮します。
メソッド:省略や言い換え、補足など、5つの手法を駆使して字幕に落とし込みます。
極めて論理的に書かれている本書ですが、単なる分かりやすい解説に留まらない、著者のあふれる「思い」も読み取れる解説書です。プロローグでは、「字幕翻訳の『あるべき姿と、あるがままの姿』を追求し、その素晴らしい理論や特性を明文化して構成に残す―。本書は主観や感想を極力排した解説書であるが、行間には映像翻訳という職能に誇りを抱く私たちの、そんな思いが詰まっている。」と述べられています。映像翻訳の魅力は、「センス」や「経験」という言葉だけでは説明し難く、体系的な解説を目指したからこそ、ひしひしと伝わるのかもしれません。
本書を読むことで、初学者の方は字幕翻訳のいろはや魅力に触れつつ、プロの方法論を体系的に習得するのに役立ちます。また、映像翻訳者として既に字幕を作られている方にも、自らの仕事を客観的・多面的に見直すのに役立ち、ひいては品質向上へと結びつくことでしょう。いずれにせよ、字幕翻訳を系統立てて理解したい方であれば、どなたにとっても有用な1冊です。
【執筆者】
米原 春香(よねはら・はるか)
北海道大学大学院農学院修士課程修了。在学中は英語研究会所属。公的機関におけるバイオ・食品関連の研究員を経て、2017年より産業翻訳者・ライターに。産業翻訳では主にビジネス・食品・観光等の分野を扱う。最近では、企業プロモーションビデオ等の字幕翻訳も数件担当。映像コンテンツの需要が今後増すであろうと考え、これを機に映像翻訳系の書籍で少しずつ学習し始めた。