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【Book Review】『パリの日々 言語哲学者の休暇、あるいは字幕翻訳者のプロローグ』(丸山直子/丸山垂穂・著)/翻訳者を目指すきっかけとなった、パリの空気に包まれた1年間の滞在記

パリの日々 言語哲学者の休暇、あるいは字幕翻訳者のプロローグ
著者:丸山直子/丸山垂穂
出版社:三修社 / 発売:2020年
価格:1800円(税別)
Kindle版:1400円(税別)

「映画翻訳には語学力だけでなく感性が大事」とよく言われます。ただ「感性」というのはあまりに漠然としていて、どうやったら身に着くのかも分からなければ、そもそも何が「センスのいい字幕」なのか明確な線引きはありません。そして当然センスだけで仕事をもらえる翻訳者は皆無で、翻訳者として活躍するためには確かな語学力をベースに持つ必要があります。

では実際に第一線にいる翻訳者の方々は、どういった経験を通してそういった力を身に着けてきたのでしょうか。

本書はフランス語の字幕翻訳者・丸山垂穂氏と、その母である丸山直子氏の共同著書で、今から約40年前に一家でパリに1年間滞在した時の暮らしを記録したものです。直子氏の夫、つまり垂穂氏の父は『ソシュールの思想』の著者である言語哲学者・丸山圭三郎氏。圭三郎氏は大変なフランスびいきで、1978年に勤務していた大学から1年間の在外研究休暇を得て、家族でパリに移り住んだそうです。

垂穂氏は本書の中で、「十代という多感な時期に異文化と触れ合ったあの経験がなければ、フランス映画の字幕翻訳者を目指していなかったかもしれない。」と書いています。本書の大部分は直子氏の視点で書かれた40年前のパリでの暮らしのエッセイで、そこで何か映画翻訳に直接結びつくような出来事があったというわけではありません。しかしそこに書かれた様々なエピソードからは、その1年が字幕翻訳者を目指すきっかけとなったと同時に、確かな語学力と多様な感性を養う第一歩だったのだろうな、ということが感じ取れます。

垂穂氏は中学を卒業してパリに移り住んだ時、フランス語はまったく分からなかったそうです。ですが日本人学校があまりなかったこともあり、現地の寄宿学校へ入学。フランス語の個人レッスンを受けながらの学校生活は、最初は当然友達との意思疎通もままならず、日本に帰りたいと思ったことも何度もあったほど大変だったそうです。しかしその分、フランス語で友達と分かりあえた時のうれしさは格別で、その描写からは言葉を学ぶ楽しさを実感する様子が伝わってきます。

夏休みに郊外へキャンプに出掛けた垂穂氏がパリの家族にあてた手紙には、フランス人の友達が、意志疎通をはかろうと一生懸命になってくれた時のことが書かれています。

昨日はこんなことがありました。アンヌ・マリーが何か一生懸命教えてくれるのですが、さっぱり分からないのです。それで彼女はとうとう自分の顔を水で濡らして「濡らす」というフランス語の単語mouiller(ムイエ)を私に教えてくれました。まるでヘレン・ケラーみたいですね。でもとってもうれしかったです。

手紙は一家の生活の中で随所に出てきます。日本にいる祖母にあてた手紙、スターへのファンレター、出張先から家族にあてたハガキなどなど、家族の誰もが折に触れ、手紙という方法でのコミュニケーションを大切にしていたことが分かります。その手紙の内容が本書で一部紹介されていますが、その文面はどれも丁寧かつユーモアがあり、単なる日常を伝える内容なのにもかかわらず時折クスっとさせられます。さすが言語哲学者一家、言葉に対する意識が高いことが窺えます。

手紙について素敵なエピソードがあります。パリで一家が仲良くなったフランス人の母娘が、日本の俳優・高倉健の大ファンだったそう。彼の映画はすべて観ているというその二人に出会い、直子氏はフランスにこんなにも熱心なファンがいることを伝えたくて、その二人も登場するご自身の著書を添えて彼にファンレターを送ったそうです。するとなんと数か月後、高倉健ご本人から「フランス人ファンの二人にあげて下さい」とサイン入りのブロマイドが送られてきたというのです。人とのつながりを大切にする気持ちからくる行動が、人を動かすのだなと思えるエピソードです。

字幕翻訳者としてだけでなく手話通訳者としても活躍されている垂穂氏は、最後にこう書いています。

現在は字幕翻訳者と手話通訳者の二足の草鞋を履いている。二つの仕事には共通点がある。字幕は映画製作者と観客をつなぐ。手話通訳は聞こえない人と聞こえる人をつなぐ。どうやら私は人と人をつなぐ仕事が好きなようだ。

字幕翻訳は人のセリフを訳す仕事です。よい文章を書くには本をたくさん読むことが大切なように、人との出会いを大切にし、様々な形で人とのコミュニケーションを積極的にしていくことは、きっとセンスのあるよい字幕翻訳をする上で役に立つのだろうなと感じます。

他にも圭三郎氏の粋な会話、おいしそうな匂いが漂ってくるような直子氏の手料理の話などを交えながら、一昔前のパリの空気が感じられる魅力的な内容になっているので、ちょっとした息抜きに手に取ってみてはいかがでしょうか。

【執筆者】
梶尾佳子(かじお・けいこ)
フリーランスの字幕ディレクター兼ライター。日本語版制作会社の字幕部にて6年勤務した後、独立してフリーランスに。翻訳を含め、言葉を扱う仕事に関する様々な情報や考えを発信していけたらと思っています。

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