さて、この記事では、翻訳業界で広く知られる「スコポス理論」を理解し、字幕翻訳への応用を考えたいと思う。
スコポス理論は、1970年代にドイツの翻訳学者ハンス・フェルメーアによって提唱された翻訳学の理論です。この理論の核となる考え方は、「翻訳の行為は目的(スコポス)によって規定される」というものです。
スコポス理論は、特定のジャンルに限定された理論ではありません。もともとドイツの機能主義翻訳学の中で発展し、あらゆる翻訳行為をその射程に入れていました。
特に、従来の「原文との等価性」という規範では説明しきれなかった、実用的な翻訳を対象とすることに強みがあります。従来の翻訳理論が、原文(Source Text)との「忠実さ」や「等価性」を最も重視していたのに対し、スコポス理論は、翻訳文(Target Text)が目的の読者(Target Audience)のもとで果たすべき「目的」を最も重要な要素とします。
翻訳文がどのような機能(Function)を果たすか、つまり「何のために」「誰に対して」翻訳するのかが、翻訳戦略のすべてを決定します。
翻訳者は単なる原文の再現者ではなく、特定の目的を達成するための行為者(Action)として、原文から離れた翻訳(意訳、省略、追加など)を行う自由が認められます。ただし、この自由は「目的」と「一貫性ルール」によって規制されます。
1. スコポス(Skopos)
意味: ギリシャ語で「目的」「目標」。
重要性: 翻訳行為全体の最上位の決定要因です。翻訳の質は、原文との一致度ではなく、設定された目的(スコポス)を達成できたかどうかで評価されます。
2. トランスラート(Translatum)
意味: 翻訳者が原文を基に作り出す最終的なテクスト(翻訳文) のこと。
重要性: トランスラートは、常に特定の目的を達成するために作成されます。翻訳者は、このトランスラートがターゲットとなる読者(受信者)の状況で、設定された目的(スコポス)を果たせるよう責任を負います。
3. テクストの一貫性ルール(Coherence Rule)
内容: 翻訳文(トランスラート)は、受信者にとって一貫性があり、理解可能でなければならないというルール。
重要性: これは、翻訳文が受け手の文化や状況の中で意味をなすこと(内的整合性)を要求します。原文に忠実であろうとするあまり、翻訳文が不自然で理解しにくいものになることを防ぎます。
4. 忠実性ルール(Fidelity Rule) または 忠実度ルール
内容: 翻訳文(トランスラート)は、原文との間で一貫性を持たなければならないというルール。
重要性: スコポス理論は原文を無視するわけではありません。ただし、この忠実性は、スコポス・ルールとテクストの一貫性ルールに従属します。つまり、「目的達成と受け手の理解を最優先した上で、可能な範囲で原文に忠実であるべき」という順序になります。
5. 翻訳行為(Translatorial Action)
内容: スコポス理論の提唱者の一人、カタリーナ・ライスは、翻訳を単なる言語変換ではなく、特定の目的を持つコミュニケーション行為として捉え直しました。
重要性: 翻訳は、依頼主(イニシエーター)、翻訳者、受取人(ターゲット読者)が関わる目的的な行為であり、翻訳者はその行為の専門家(エキスパート)として認識されます。
・技術翻訳(マニュアル、仕様書)
目的:正確な情報伝達、操作手順の提供
・ビジネス文書(契約書、報告書)
目的:法的拘束力、情報提供
・広報/マーケティング翻訳(広告、パンフレット)
目的:製品の販売促進、ブランドイメージの構築
・ウェブサイト
目的:ターゲット市場での使いやすさ、文化的適応
・映像翻訳
目的:物語の理解、感情移入
字幕翻訳は、翻訳文が映像鑑賞体験の一部として機能することを目的とします。そのスコポスは、主に以下の4つの要素で構成されます。これらの目的を総合的に達成することが、スコポス理論における字幕翻訳の「良い翻訳」の基準となります。
1. 作品の理解と情報伝達(認知的スコポス)
最優先事項:視聴者が作品の世界観、物語の流れ、登場人物の関係性を認知的に理解できるようにすること。
物語の明確な伝達: セリフやナレーションの主要な情報を、誤解なく、かつ迅速に伝える。
文脈の補完:映像だけでは分かりにくい背景情報や専門用語を、簡潔に補足し、理解を助ける。
ストーリーの一貫性の維持: 翻訳全体を通して、設定や固有名詞の訳語にブレがなく、物語の整合性を保つ。
2. 感情的・審美的体験の提供(感情的スコポス)
没入感の創出:視聴者が登場人物の気持ちや作品のムードを感情的に共有できるようにすること。
感情移入の促進:登場人物の喜び、怒り、悲しみといった感情や、ユーモア、皮肉などのニュアンスを、日本語の適切な表現を用いて再現する。
トーン(口調)の再現:映像内のキャラクター設定(年齢、社会的地位、親しさなど)に応じた自然な口調(敬語、タメ口など)で訳し、作品の雰囲気を損なわないようにする。
3. 視聴負荷の最小化(技術的・実用的スコポス)
制約の克服:字幕の物理的制約を克服し、視聴の妨げにならないようにすること。
読解スピードの確保:字幕の表示時間と文字数の厳格な制約内で、視聴者が一読して内容を理解できる情報量に調整する。
映像優位性の維持:字幕の存在感が強くなりすぎず、視聴者の意識が映像から離れないように配慮する。
4. 文化的な橋渡し(適応的スコポス)
ローカライゼーション:原語文化の要素をターゲット文化(日本)に円滑に受け入れられるよう適応させること。
文化特有表現の調整:原語圏のジョーク、慣習、比喩などを、日本の視聴者にとって同じ機能(笑いや共感) を果たす表現に意訳する。
普遍性の担保:作品のメッセージやテーマが、文化の壁を超えてターゲット視聴者に響くように、表現を調整する。
さて、タイトルにあえて「意訳」という言葉を使った。
字幕翻訳にかかわっていると、たびたび「意訳派」と「アンチ意訳派」という話題が出る。
私自身はどちらかといえば「意訳派」だ。
ただし、翻訳として原語に忠実で、なおかつ自然な日本語になっている翻訳に対して、原語が分からなくなるまで改変したほうがいいとは考えていない。
実は「意訳派」と「アンチ意訳派」が求めている翻訳は大差がないのではないかと思う。
「アンチ意訳派」の人も、決して逐語翻訳や直訳を求めているわけではない。求めているのは原語が自然な日本語に変換された翻訳だ。さらに字幕であれば文字数制限などを適切にクリアした自然な日本語だ。
これは「意訳派」の私が「意訳」と呼んでいるものにほぼ合致している。
思うに「アンチ意訳派」の言う「意訳」は「脚色」に近いのではないだろうか。
「意訳」が「脚色」とイコールなのであれば、「意訳派」の私も「半アンチ意訳派」かもしれない。
「半」と入れたのは、「脚色」についてもシーンに合っていて感動できる字幕であれば、それもいい、と思ってしまうからだ。
ということで、スコポス理論に戻るが、スコポス理論を適切に実行すると、字幕翻訳は結果的に上述した「意訳派」「アンチ意訳派」のどちらもが目指すところの「意訳」になるのだと思う。
その翻訳は中途半端に改変された翻訳ではない。
1. 作品の理解と情報伝達、2.感情的・審美的体験の提供、3.視聴負荷の最小化、4.文化的な橋渡し、というスコポスが総合的に達成された翻訳だ。
スポコス理論は、本来、字幕翻訳用の理論というわけではないが、字幕翻訳にも応用でき、翻訳の着地点を見失ったときなどは、少しスコポス理論的な視点を持つことで迷いが減るかもしれない。

